最近一番インパクトの強かった市長といえば、やはり鹿児島県の阿久根の竹原信一市長だろう。
ブログ等で市会議員や市の職員を敵視して非難し、半ば強引に改革を行ってきた人物だ。不信任決議案が可決され、出直し選挙で再選を果たした。
圧倒的に支持されたわけではないが、それでも多くの市民がそんな市長に共感しているのは事実なのである。
この市長のおかげで阿久根市のことを知った人も多いだろう。それだけ市長のインパクトというのは大きいのである。
市長がその市の顔であることは、必ずしも悪いことではない。それだけ仕事をしている証拠だ。存在感もなく、誰も顔も名前も知らないというよりは、よほど「正常」な状態であると言える。
ただし、阿久根市長のように過激すぎると反発を招き、正常は異常になる。いくら有名でも、市民にとって身近に感じられないようでは意味がない。現にその過激さに嫌気が差して、反対票を投じた市民もたくさんいるのだから。その意味でこの市長の真の敵は自らの過激さにあるのかもしれない。
市長は身近な存在であるべき
市長とはいったいどのような存在なのだろうか。
私はこれまで何人かの市長と話をしたり、コミュニケーションを取る機会があった。市役所に勤めていた時、市長と職員の語り合いの場が設けられたり、遠い親戚が市長だったり、従妹が秘書をしている市長と親しくなったり、今も市の審議会委員をやっている関係で市長とお話ししたりと、知り合う場面は様々である。どの市長もとても気さくな方で、私自身は親しみを感じている。
とはいえ、私がいくらこうした市長の方々に身近な雰囲気を感じていたとしても、これらは特殊なケースであろう。
そこで、私の勤務する学校のあるクラスで、山口県周南市の市長について聞いてみた。まず市長の顔を知っているかどうか。これには41人中38人が知っていると答えた。
次に、市長と話したことがあるか聞いてみた。すると、4人が手を挙げた。これは驚くべき数字である。市長と話したことのある学生がクラスに1割もいるというのは、相当高い割合だ。部活動で良い成績を収めて報告に行ったとか、学園祭を訪れて来た時に話をしたらしい。
いくら田舎とはいえ、15万人も人口がある都市で、これほどまでに市長が身近なのは喜ばしいことではないか。
戦後位置づけが変わったといっても、天皇陛下にはめったに近づくことはできない。総理大臣にもSPがついている。知事もそうだろう。
しかし、市長は市政が身近なものであるのに比例して、身近な存在であるべきだと思うのだ。