『北野天神縁起絵巻』第二巻(乙巻)部分 鎌倉時代 和泉市久保惣記念美術館蔵 引用:和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。
死後に怨霊になったとされる道真
菅原道真(みちざね)の子供も『吏部王記(りほうおうき)』に登場するので、取りあげてみよう。『吏部王記』は醍醐(だいご)天皇第四皇子の重明(しげあきら)親王の記録した古記録である。『吏部王記』の名称は、重明親王の極官(ごっかん/その人の任じられた最高の官)である式部卿(しきぶきょう)の唐名(とうめい)による。原本はもちろん、写本も伝わっていない。『西宮記(さいきゅうき)』『北山抄(ほくざんしょう)』など後世の儀式書や、『源氏物語(げんじものがたり)』の注釈書などに引載された、延喜(えんぎ)二十年(九二〇)から天暦(てんりゃく)七年(九五三)までの逸文(いつぶん)が伝わる。
ここで紹介する菅原兼茂(かねしげ)は、『吏部王記』延長五年(九二七)十月条(『扶桑略記』による)に、次のように見える。
この月、訛言が甚だ多かった。或いは云ったことには、「故大宰菅帥(菅原道真)の霊が、夜、旧宅に到って、子息の大和守(菅原)兼茂に雑事を語って云ったことには、『朝廷は大事が有るであろう。その事は大和国で起こるであろう。汝(兼茂)は好んでその事を慎み行なうように』と。他の事は甚だ多かった」と云うことだ。但し、他の人はこれを聞くことはできなかった。あの朝臣は秘して、他人に語らなかった。
延喜元年(九〇一)の「昌泰(しょうたい)の変」で正月二十五日に大宰府に流され、二年後の延喜三年(九〇三)二月二十五日に当地で死去した道真は、死後に怨霊となったとされた。
「昌泰の変」を主導した藤原時平(ときひら)は延喜九年(九〇九)に三十九歳で死去し、延長元年(九二三)に皇太子の保明(やすあきら)親王が二十一歳で死去し、続いて立太子した保明の子の慶頼(よしより)王(母は時平の女である仁善子[にぜし])も、延長三年(九二五)に五歳で死去してしまった。道真の怨霊が喧伝(けんでん)されたことは、言うまでもない(『日本紀略(にほんきりゃく)』)。
醍醐自身も延長八年(九三〇)六月の清涼殿(せいりょうでん)落雷のショックで七月に「咳病(がいびょう)」を発し、九月に皇太子寛明(ゆたあきら)親王に位を譲り(朱雀[すざく]天皇)、十月十九日に宇多(うだ)法皇に先立って死去した。
さて、「昌泰の変」では、道真の子たちもそれぞれ処罰を受けた。『政事要略』によると、嫡男の高視(たかみ)は大学頭であったが、土佐介に左遷され、景行(かげつら)は式部丞であったが、駿河権介に左遷され、兼茂(かねしげ)は右衛門尉であったが、飛騨権掾に左遷され、まだ文章得業生に過ぎなかった淳茂(あつしげ)も播磨国に流された。
ただし、高視は五年後に帰京して大学頭に復帰しているし、淳茂も罪を赦されて帰京した後の延喜十一年(九一一)以前に式部少丞に任じられ、翌延喜十二年(九一二)に従五位下に叙爵されている。延喜二十一年(九二一)に右少弁に任じられ、後に右中弁に転じた。その後、兵部丞・大学頭・文章博士・式部権大輔を歴任し、正五位下に至った。処罰者をすぐに赦免するという日本的な措置である。淳茂の孫にあたる輔正(すけまさ)は一条(いちじょう)天皇の時代に参議にまで上っている。まあ、道真の怨霊のおかげでもあるのだが。
兼茂は道真の何番目の子かは不明。生母や生没年も不明である。坂本太郎氏畢生の著である『人物叢書 菅原道真』(吉川弘文館)にも、「景行・兼茂は、父の左遷の時、地方官に遷されたが、早世したので大成しなかった」としか記されていない。
さて、この『吏部王記』の記事であるが、道真が死去してから二十四年後、「訛言が甚だ多かった」というのは、道真の怨霊について様々な噂が語られていたことを指すのであろう。そして大和守であった兼茂に道真の霊が語った(託宣した)ということなのであろう。「朝廷は大事が有る」というのは、皇室に何らかの変事があることを指すものか。すでに皇太子保明親王は四年前、次の皇太子慶頼王も二年前に死去してしまっているので、これは三年後の醍醐の死去を指すものであろうか。
ただ、「その事は大和国で起こるであろう」というのは、兼茂が大和守であることによるものであろう。「他の事は甚だ多かった」ということで、他にも多くのことを語っていたようである。
もちろん、託宣というのは、霊が取り憑いた人の心の中で起こるものであり、その人の考えが言葉となって現われるに過ぎない。兼茂が醍醐をはじめとする朝廷に関して、様々なことを考えていたことの反映であろう。
それにしても、兼茂はこれを「秘して、他人に語らなかった」というのに、どういう経路で醍醐皇子の重明の耳にまで届き、こうして日記に記録されたのであろうか。もしかすると、兼茂自身が「秘かに」これを広く言いふらし、道真を重用せよという宇多天皇の遺誡を守らずに、父道真を死なせてしまった醍醐に対する復讐だったのかとも勘ぐってしまう。
先に記したように、三年後に道真の霊と思われていた落雷がもとで醍醐は死去し、その後は各地の天神絵巻に、地獄で苦しむ醍醐の姿が描かれることになるのである。







