もう値段は覚えていない。60円か70円くらいだったか。チャーシューがごちそうで、何枚もはいったチャーシュー麺は、貧乏学生には食べられなかった。
醤油も塩も味噌も好きだが、昔、袋麺のとんこつ味を食べたところ、臭いにやられて食べられなかったという記憶がトラウマになり、いまだにとんこつだけは避ける。
店のとんこつラーメンはまた別なのだろうが、食べる機会がないものだから、今後も変わりそうにない。
袋麺はめったやたらに食べた(当時、カップ麺はまだなかったが、あっても高くて食べられなかっただろう)。
したがってわたしのラーメンの基本は、町の中華屋のラーメンと袋麺からできている。いまでも町中華の鳥そばや海老そばや醤油ラーメンで十分であり、満足である。だから、ラーメン専門店で食べるという意識が形成されなかったのだと思う。
ラーメンごときに、そんなに必死にならんでも、と思ってしまうのだ。
けれど世のラーメン好きの熱意がすごい。「ラーメンごとき」など、ばかいってんじゃない、といわれそうだ。
いまではラーメンは、国民食になった感がある。それだけではない。
だしやスープや麺を極めようとする作る側の姿勢は、ラーメンを特権的な食べ物に押し上げた。また、それを食べさせてもらう客にとっても、自分たちは特権的なものを頂いている、という意識があるように思われる。
スープの最後の一滴まで飲みほさなければ、もったいない、というように。
まさに、たかがラーメン、されどラーメンなのだ。
かならず報われる手軽な「しあわせ」
いや、これはラーメンに限ったことではない。世間で評判のグルメを食べるためなら、多少の代償は惜しまないという驚異的な人々がいる。