45年間、監督を務めた春日部共栄高校の本多利治監督
45年前、大学卒業とともに新設された春日部共栄高校の監督となり、全国屈指の強豪佼に育て上げた本多利治監督。しかし2000年代に入ってからは、浦和学院や花咲徳栄といったライバル校の躍進もあり、次第に甲子園への出場回数が減っていた。
高校野球を取り巻く環境、価値観が変化していく中で、自らの指導スタイルを貫いてきた本多が退任を前に、監督人生と高校野球への思いを語ってくれた。(矢崎良一:フリージャーナリスト)
【前編】45年の監督生活で甲子園優勝よりも悔いが残ることとは、プロ野球選手を数多く育てた春日部共栄・名伯楽の哲学
「進学に力を入れ始めてからは、毎年しんどかったですよ。だから四十代、五十代、六十代と、1回ずつしか甲子園に出られなかった。最近でも、センバツに出場した2019年のチームには、エースに村田賢一(現ソフトバンク)がいたでしょう。そういう選手との出会いがないと、今のウチはなかなか勝たせてはもらえない」
本多は甲子園から遠ざかった監督生活の後半生をそう言って振り返る。
「でも、弱くても常に『(甲子園を)狙うぞ』と言ってきました。弱いと思ったら弱いんです。『やれるぞ、お前ら』という、ずっとそういう言い方をしてきました」
45年の中で、時間を掛けて取り組んできたことがある。それは「強制」から「自主性」への指導方針の転換。
「僕の原点は高知高校ですから。高知高校は自主性のチームでした。だけど、ウチ(春日部共栄)には伝統がないんで、そりゃ最初から自主性というわけにはいかない。学校自体も創立当時は学力がない子も入れましたから、どうしても強制でやらせるしかなかった。当時は100人入部してきても70人が辞めていくような練習をしていましたね。それでも、どこかで自主性に転換していこうという考えは持っていました」
70人が辞めても残った30人には骨があった。まだカラーが作れていない学校で、「お前らが引っ張っていけ」と学校生活の中でもリーダーになるように働きかけた。チームを率いて11年目に初めての甲子園出場を果たしたが、その頃はまだひたすら厳しい練習をしていた。
「鍛えて鍛えて鍛え抜いて。あのチームなんて全員埼玉の子ですよ。よくあそこまで伸びたものです」と本多は懐かしそうに振り返る。
そこからの転換。「ヘタすりゃ、(45年の中の)30年くらい掛かったんじゃないかな」と言う。気持ちがあってもなかなか踏み込む勇気が持てず、「3歩進んで2歩下がる」の繰り返し。そんな状況が長いこと続いた。
「指導法を変えていくのが大変でした。子どもらに『変われ』と言っても、経験がないんだから無理ですよ。大人が変わっていくしかない。それが大変だったんです。でももう、変えるんだったら、とことん『高校野球はこうあるべきだ』というところを突き詰めていこうと思ったんです」