東日本大震災で、日本中が「自粛」の大嵐になった。すぐに自粛は「萎縮」となって、妙な閉塞感が日本列島を包みこんでいる。その状況を見ていて、大胆なことができにくいと言われる日本的経営の原点を見たような気がしたのは、私だけだっただろうか。
3月29日の記者会見で石原慎太郎・東京都知事は、東日本大震災に関連して「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」と述べ、花見の自粛を訴えた。本人にしてみれば、被災者に配慮しての発言だったと思われる。
さらに石原知事は「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」と続け、「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語ったのだ。
これに、ツイッターをはじめネット上では大ブーイングが起きた。しかし石原都知事は、4月10日の都知事選で、あっさり再選を果たしてしまった。あのブーイングの主たちはどこに行ったのだろうか、と思うほどのあっけなさだった。
石原都知事の訴えが支持されたとは思わないが、今年の都内の花見は淋しいものだった。職場での花見など、ほとんどが中止になったのではないだろうか。
そして、誰もが口にするのが「自粛」だ。
花見だけではない。自粛という名の下に、どの企業も目立つことをやりたがらなくなった。イベントもことごとく中止してしまう。トップインタビューを申し込んでも、「今の時期はちょっと・・・」という反応ばかりになった。自粛ならいいが、こうなると萎縮そのものでしかない。
自粛を全面否定するつもりはない。節電という自粛はやるべきだし、必要以上に大騒ぎするようなことはやるべきではない。
しかし、自粛ばかりで萎縮し、元気をなくしてしまっては元も子もない。よく言われることだが、支援しなければいけない側が支援できる力をなくしてしまっては、東北地方の復興は遠のくばかりである。
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自粛が萎縮になってしまうというのは日本の特徴らしい。そうなってしまうのは、自ら主体になって考え、判断しない姿勢の現れでしかない。