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昨年10月の中国共産党大会にて、渦中の張高麗元副首相は何事もなかったかのようにひな壇の最前列に座り、習近平主席に拍手を送っていた(写真:ロイター/アフロ)

(文:中澤穣)

世界中で話題となり、北京冬季五輪の「外交ボイコット」にまで発展した中国人女子テニス選手の「性的被害」疑惑。ロシアのウクライナ侵攻などに伴って世間の関心は急速に薄れ、気が付けば、「女性の権利」を巡る戦いは中国の巨大市場を前にあっけない敗北に終わっていた。

 あまりにあっけない幕切れだった。中国のプロテニス選手彭帥さん(37)が2021年11月に、張高麗・元副首相(76)に性的関係を強要されたと告白した後に一時消息不明になった件だ。彭さんの無事の確認と徹底した調査を求めて中国での大会開催を見合わせていた世界女子テニス協会(WTA)が今年4月、中国での大会開催を9月から再開させると発表したのだ。もちろん調査などは行われておらず、世界の耳目を引いた中国とWTA(とそれを支持した人々)との1年4カ月にわたる駆け引きは、中国側の完全勝利で終わった。

 WTAは4月13日の声明で「状況は変わる兆しがなく、(徹底調査など)私たちは目標を完全に達成することはできないと判断した」とあっさりと白旗を揚げた。彭さんとは直接連絡をとれていないと認める一方で、彭さんが北京で家族と安全に暮らしていることを確認したと強調した。日本での各メディアの扱いはかなり小さかったため、気づかなかった読者も少なくないだろう。

「中国政府にとって大きな勝利」

 WTAのスティーブ・サイモン最高経営責任者(CEO)は決定の背景に経済的な動機があったことを隠さない。英BBCの取材に、決定は商業的な現実によって強制されたものではないが、中国からの引き上げによって「多くの犠牲を払った」と認める。さらに「再開を支持しない選手もいたが、大部分の選手は戻るべきときだと話した」と明かす。

 賞金額の大幅な減少など影響が広がっていたためとみられる。米ニューヨーク・タイムズ紙によると、コロナ前の2019年にWTAは中国で9大会を主催し、WTAの年間収入のうち3分の1を占めた。今年9月から中国での大会が再開することにより、シーズン終盤戦はコロナ前と同様に中国に集中することになり、今年は8大会が開かれる見通しだ。WTAは2019年から10年間、シーズンの最終戦を深圳で開催する契約を結んでいた。

 大会再開の決定には当然、人権団体などから失望が広がった。国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの中国担当者は同紙に「お金が問題となったのは驚くにはあたらない」と語り、「中国政府に対して単独で立ち上がればコストが高くなり、力は小さい」とも指摘した。同じく国際人権団体のアムネスティはBBCに「彭さんが本当に無事で自由であるという、独立して検証可能な証拠はない」と断じ、「WTAが中国に戻ることは、この国での性暴力被害者が直面している構造的な不正義を永続化させるリスクがある」とも訴えた。

 まさに「中国政府にとって大きな勝利」(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)だが、中国国内での報道は控えめだ。中国では厳しい情報統制がしかれたため、この件はなかったことになっている。テニス専門メディアなどは中国での大会再開をそれなりに大きく伝えたものの、「なぜ大会が開催されていなかったのか」は書くことができない。奥歯にものが挟まったような記事となり、中国の読者が疑問を抱かないのか不思議になる。一方、習近平総書記が3期目をスタートさせた昨年秋の中国共産党大会では、張高麗氏はひな壇の最前列に座り、習氏の演説に盛んに拍手を送っていた。彭さんとの件は不問のようだ。

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