愛知万博・瀬戸愛知県館のスタッフに囲まれる泉眞也さん、当時75歳。(2005年6月6日、写真:山根一眞)

(山根 一眞:ノンフィクション作家)

 2022年1月2日の朝、数多くの万国博覧会や地方博覧会のプロデューサーをつとめてきた泉眞也さんが逝去された。泉さんは私がおよそ50年間にわたって薫陶を受けてきた最大の大親分だった。

 日本初の工業デザイナーとしてキヤノンカメラ(現・キヤノン)に7年間在籍し、1962(昭和37)年の退職後フリーとなった泉さんは、世界の都市と高速道路の視察旅行を行っている。それは、後の日本の近代化にとってきわめて重要な旅だった。

 この視察は、1956(昭和31)年に発足した日本道路公団、大手建設会社、海外石油プラント建設を担う商社、外務省などのバリバリのエンジニア、ビジネスマン、官僚、記録映画の専門家、NHKのディレクターなどによる「グループasu」の取り組みだった。視察団長は、当時、経済企画庁総合開発局調整官だった下河辺淳(しもこうべ・あつし)さん(1923~2016年)だった。

官僚の神様と言われた下河辺淳さん。その業績を見直そうという機運が高まっており(財)日本開発構想研究所は「下河辺アーカイブス」を立ち上げた(1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生当日に神戸復興について対談、写真・山根事務所)

 下河辺さんは、1962年に閣議決定した全国総合開発計画のシナリオを描いた官僚で、後、1977年から1979年の退任まで国土庁(後の国土交通省)事務次官として手腕を発揮。「米政府が尊敬する3人の日本人の1人」と言われていた(後の2人が誰だったのかは聞きそびれた)。現在の日本の高速道路や新幹線などの交通網、そして多くの大都市開発、さらには中国の深センの都市計画まで下河辺さんの哲学、思想で実現、いわば国創りの天才だった。1995年の阪神・淡路大震災では復興委員長もつとめた。

(参考)「追悼・下河辺淳さん 戦後の国土開発を担った男」(日経ビジネスオンライン、2016年8月25日)