パンデミックはより強い公権力行使が正当化される

 わが国では、政治家も政府も私権の制限には及び腰だ。しかし敢えて問う。彼らが守ろうとしているのは、誰のどのような権利なのか。

 営業の自由、職業選択の自由等の基本的人権を守ることの重要性を否定する気は全くないが、国家として最も尊重し守らなくてはならないものは、国民の生命、健康ではないのか。国民は、何らかの原因で生命や健康を危険にさらされた場合、国家に生命や健康を守ってもらう権利を有している。これも憲法が保障する基本的人権ではないか。

 伝統的な国家学、公法理論によれば、感染症対策の目的はできる限り多くの国民を感染から守ることにある。そのためには、検査によって感染者を発見し、非感染者との接触を避けるために隔離しなければならない。今回のコロナ禍の下ではほとんど聞かれないことばだが、このような国家の機能は、かつて「社会防衛」と呼ばれていた。

 感染症が急拡大しているような場合、他に有効な方法がないならば、裁判を経ることなく強制的に国民の権利の制限をすることもやむを得ない。制限が必要最小限でなければならないことは当然であるが、民主国家において、最も強い公権力行使が許されるとされてきたものの一つがパンデミックである。

 経済活動を含む社会の安全や秩序を維持し、社会の受けるダメージを最小化することは国家の責務である。このような観点から見れば、公権力を実際に行使するか否かはともかく、多くの国民の生命を守るために必要ならば、国家が国民の行動を規制し、それを罰則をもって担保することも認められるはずだ。

 変異ウイルスが猛威を振るうまでは感染力も致死率もそれほど高くなかったため、欧米諸国と異なり、わが国はロックダウンせず、「要請」すなわち「お願い」によって国民の行動変容を実現しようとした。

 当初は、それでも多くの国民が自粛し一定の効果を挙げたが、それが繰り返され国民の学習が進むと「要請」だけでは効果がなくなってくる。今年2月の感染症予防法や新型インフルエンザ等対策特措法の改正に当たって、原案には強い罰則規定も入れられていたが、各方面からの反対で後退した。本人の責任ではない感染に対して、入院勧告を拒否した者に刑事罰を適用することは、過剰な権利侵害の可能性があるといった議論がなされた。

 罰則適用の有無、程度は権利侵害の観点から判断されるべきことはいうまでもない。しかし他方では、行動規制における目的達成のために有効であるかという観点からも判断されなければならない。軽微な規則違反や、違反に合理的な理由がある場合にも、何が何でも一律に罰則を適用するということは、法執行の観点から想定されていないし、現実にもありえない。

この人が何を言っても、国民は反応しなくなくなっている(写真:つのだよしお/アフロ)