キリンホールディングス株式会社
コーポレートコミュニケーション部
IR室長
松尾 英史氏
目先の売上げや利益だけでなく、資本効率性や事業別の稼ぐ力を見極めながらポートフォリオを組んでいく経営スタイルへと移行しながら、真の生産性を改善していく。先が見えない時代の日本企業にはこうした企業変革が求められている。今回はその先進企業として、2019年からROIC重視の経営へとかじを切ったキリングループに、その背景と取り組みを聞いた。
上場来初の赤字、事業投資基準の見直しへ
――キリンホールディングスの2019年~2021年中期経営計画では、ROICを重視した経営体制への移行をうたっています。主要な経営指標にROICを採用する企業は、日本ではまだ少ないと思いますが、舵を切った理由を教えてください。
松尾 話は、その前の中期経営計画(以下、中経)を策定した2016年にさかのぼります。2016~19年の中経策定時、私は財務部門の責任者として計画策定に取り組んでいました。この頃のキリンは、M&Aでつまずいていました。ブラジルの子会社について約1100億円の減損処理を行い、キリンとして上場後初めての最終赤字に陥りました。
当社はこのタイミングで社長が現任の磯崎功典に交代し、経営再建にあたりました。磯崎は中経のテーマに「再生と再編」を掲げ、徹底的に収益を重視した施策を実施しました。
具体的には、不採算事業の再生・再編を進め、収益の高い事業はさらに利益を伸ばすことを目指しました。不採算事業は大きく3つ。減損したブラジルキリン社と豪州ライオン社の乳飲料事業、そして国内の飲料を担うキリンビバレッジでした。この3事業の立て直しを重点的に行いました。その結果、キリンビバレッジは事業利益10%レベルまで回復し、中核事業の1つとなりました。一方、ブラジルキリンと豪州乳飲料事業は、われわれがベストオーナーではないと判断し、売却することでポートフォリオの再構築を行いました。
買収を重ねてきたことで、D/E(デット/エクイティ)レシオも1倍を超えていました。当時の主要KPIはROEでしたが、事業再編を進めていく課程で、投資家だけを意識したROEではなく、借入金も含めて企業が事業へ行う投資全体に対する効率を見る必要があると痛感しました。
2019年からは「再生から成長へ」ギアを入れる
――経営計画の中で、ROICはどのように使われているのでしょうか。
松尾 全ての事業の可否を決める財務指標の一つとして使っています。当社は前中計の実行で、負債の整理と事業再生が一通り終わり、財務の立て直しは完了しました。そのため、これから当社はどこに進めばいいのかという指針が必要でした。そこで2019年に、次の中経に合わせ、長期経営構想「KV2027」(ビジョン)を策定しました。
このビジョンでは、当社の基幹技術である「発酵バイオ」を使って、社会に貢献できる企業になっていこうという方向性でした。
当社の根幹は酒類(アルコール)事業です。しかしながら、この酒類事業自体がこの先、成長を続けることが困難かもしれないという観点に立って戦略を考えました。突き詰めて考えていく中で、技術と人材の面で、当社が持っている本当の強みは発酵バイオの技術ではないかという結論になりました。
110年前にビールという祖業からスタートしたキリンですが、ルーツは発酵バイオの技術です。これが40年前に医薬事業を立ち上げるきっかけとなり、今、協和キリンとして事業を行っています。
「酒類と飲料」、そして「医薬品」という2つの分野で顧客を考えたときに、「お客さま」「患者さま」ということが言えるわけですが、どちらも「生活者」とみれば同じです。
そこで注目したのが、病気になる前の「未病」の段階です。ここを改善できれば、生活者の暮らしそのものを改善し、豊かな生活に貢献ができると考えました。それが3つ目の重点分野である「ヘルスサイエンス領域」です。ここに発酵バイオの技術を活かした新事業の立ち上げを考えています。
このビジョンに沿った新事業を立ち上げる際にも、しっかりと利益を出すことを重視して実行していかなければいけません。総合的な投資と純粋な利益を対比させて判断するROICを評価基準の中心に据えていかなければいけないと考えています。
――3つの事業領域に関して、それぞれ投資に対する考え方は違うと思います。例えば、新規事業では思い切った投資も必要です。どのような基準を設けているのでしょうか。
松尾 昨今、「両利きの経営」といわれていますが、当社もこれを重視しています。まず、既存事業が強くなければ生き残っていけないということはあります。既存事業がしっかり稼いでいるから、次のチャレンジができると捉えていて、2016年の中経は、結果的に既存事業は強いということを示すものだったと思います。そして2019年の中経は、強い既存事業をベースに、次のチャレンジをさせてくださいと資本市場に問うたものです。投資家との対話を通じて戦略をブラッシュアップしていくのも当社の特徴です。そのときに主要な財務指標として、ROICを取り入れています。連結でROIC10%以上という目標を掲げています。
当然ですが、新規事業の場合、最初は、すぐにROIC10%にはたどり着きません。それぞれの事業で見れば、新規事業などは当初は利益が出ないため、低いROICにとどまります。そこは改善していかなければいけません。5年程度で結果を出さなければいけません。
重要なのは、それぞれの事業が、現在のROICレベルを理解した上で事業を進めていくことだと考えています。たとえ今は低くても、これを数年後に10%まで改善していくためにはどうすればいいかを、各事業部門としっかり協議していくこと。その結果、企業全体として高収益を目指すことが、ROIC経営の本質だと思います。
ROICはグループ企業別に見ていくことを計画していますが、今は実装段階で、一部はまだROAを指標にしています。2022年に主要なグループ全社でSAPが稼働する予定で、それによってグループ全体のROIC管理ができると考えています。その際、基礎研究や全社のIT投資などグループの共通費用については、いったんホールディングスで持つことにして、事業規模に応じて費用を徴収する形を取ることにしています。
ビールは20のうち7商品しかブランド投資しない
――酒類などの既存事業では、どうしても前例主義になりがちだと思います。投資効率重視への方針転換は大きな意識改革が必要だったわけでしょうか。
松尾 ここは大きな課題でした。「ROICです」と言っても社員には何のことか分かりません。単に、経営が求める結果指標だと思われないように、社員の行動に落としていくことが重要でした。
現場に落としていくにあたっては、分かりやすいところでP/L(利益)の話として戦略を詰めていく。そして正しい戦略であれば、B/S(財務)に効いてくるのかを意識しなくても、その行動自体が改善につながり、最終的にそれぞれの現場のKPIになることを目指しています。
例えば、ブランド育成に投資利益重視の考え方を持ち込むときに、マーケティングROIを良くしなければいけないという話になります。ビールについての施策では、従来は、20ブランドに投資を分散していました。それを当時は、7ブランドにしか投資しないと決めました。
また、お気付きかもしれませんが、キリンは最近、あまり新商品を発売していません。2019年は、ビールの新商品が業界全体で44も出ていた中で、当社はわずか4つしか出しませんでした。ブランド育成も、限られたお金を特定の商品に集中することで、最大限の効率を引き出すことを目指しています。
とはいえ、その実行は簡単ではありませんでした。ビール業界は、昔から「箱数主義」、つまりどれだけ数量を多く売って売り上げを伸ばすかに全精力を注ぎ込んできました。典型的な売り上げ重視の経営です。過去は、販売数量さえ確保すれば、利益は後からついてきた時代で、それが最善の方策だったと思います。ですが今は、新しさだけが売りの商品では長続きしません。
新商品を絞り、投資する商品を絞ることで、ROIの実績値が改善しました。SKU(商品数)が減ることでサプライチェーンのコストも減り、在庫管理も効率化するなど、好循環が生まれています。
投資効率重視の考え方を全社に浸透することができたのは、2015年までの業績低迷、赤字転落の事実と、「このままではいけない」という空気が社内に漂っていたことが大きいと思います。
この状況下、2016年社長に就任した磯崎が全社員に出したメッセージが「反省と覚悟」というものでした。今までのやり方を反省した上で、これからは利益重視の考え方に変わると宣言したのです。それがきっかけとなり、その後のROIC改善につながる行動基準への変化が起きたと思います。
意識改革の当初は、一時的に業績が下がり、苦しい時期がありました。ですが、好循環が出てくるまでやり続けなければいけないと我慢したことで、現在の状況があると思っています。
低収益だったキリンビバレッジの飲料も、同じ考え方でマーケティングROIを改善し、今中計でもSKUを20%削減しました。全社的に経営効率を良くしていこうという考えが波及していったことで、最終的にROIC改善という結果につながっていくものと考えています。
コロナ禍で威力を発揮したROIC経営
――今は中期経営計画の3年目ですが、過去2年の成果と、社内の意識改革の進捗について、どう評価していますか。
松尾 コロナの問題は避けて通れません。当社は酒類に関わる事業をしていますから、三度の緊急事態宣言などで飲食店に休業要請、時短要請が出たことで、業績に大きな影響を受けています。
当社の2020年12月期の事業利益は前年度比15%程度の落ち込みですが、これはビール業界の中では、世界的に見ても少なくおさめられたとみています。この要因の1つには、ROIC経営への変化によって、何に対して幾ら投資していたかを整理できていたことが大きかったと思います。
2020年12月期は、コロナによって約660億円のマイナスの影響があったと考えていますが、それに対して300億円のコスト削減を行い、事業損失を最小限に抑えられたと思います。
コロナ禍で当社の経営として行ったことは、まず2020年3月に、当面の間、不要不急の投資案件を全て停止すると決めました。その判断がすぐにできたのは、ROICの考え方が浸透していたからだと考えています。各事業における投資対効果を見据え、迅速なコストコントロールができたことは、投資家の方からもご評価をいただいています。
2022年度にROIC10%を回復するという目標の達成は、コロナによって厳しくなっていますが、ダメージを最低限に抑えられたのは、どこを抑えればどれだけ損失が抑えられるかをつかんでいたからできたと考えています。「箱数主義」のままでは、このような緊急事態には余分な投資をやめようにも打つ手がありませんでした。
――コロナ禍で新たに取り組んだことは何でしょうか。
松尾 ROIC経営が浸透していたことで、コロナ禍で投資を絞る中でも、必要だと判断した分野には投資を継続する判断ができました。
一例を挙げますと、ヘルスサイエンス領域で、ファンケルとの提携があります。当社は基礎研究を得意としており、ファンケルはこの分野での商品開発やマーケティングに多くの実績とノウハウを持ちます。コロナ禍で店舗販売が難しくなったときに、ファンケルのネットチャネルの強み(マーケティング)を学ぶことができました。
ビール飲料でも、「キリン一番搾り 糖質ゼロ」「淡麗グリーンラベル」など、ヘルスコンシャスな商品を重点的に強化しました。健康志向と、酒類消費の変化への対応については、コロナ直前の2020年1月に重点投資の方向性を示していました。2020年10月の酒税改正で、ビールの税金が下がるタイミングに合わせて「一番搾り 糖質ゼロ」を発売する計画を実行しました。
コロナの影響は長引いていますが、コロナが終息しても、自宅に帰って飲むという習慣はなくならないと考えています。自宅で手軽に飲める商品の領域と、一方の飲食店では、より特別で単価の高いクラフトビールなどの商品を出す方向性が出てくると思います。こうした変化を見据え、飲食店向けに1台で4種類のクラフトビールを提供できる「タップ・マルシェ」の展開を加速しました。セグメントを切って迅速に投資判断していくことが、ROIC経営の目指すところだと考えています。
ROICはCSV経営の基盤になる
――2027年のビジョンに向けて、ROICはどう位置付けられていますか。
松尾 対象を絞って集中的に投資する際、どこに投資するかの基準を持つことが非常に重要です。当社では、社会課題を解決していくことを、事業の目的に位置付けています。
一時的に儲かったとしても、サステナブルでないものはやる意味がないと考えています。仮に短期的には利益を失うことになっても、長期的な視点に立ち、ビジネスを通じて社会課題を解決していくことが経営の使命です。
当社がCSVを経営の軸に据えたのは、東日本大震災があった後の2013年からです。当初は苦労しましたが、ようやく根付いてきました。今では社員個人の目標にも、社会課題の解決を入れることを義務付けており、役員についても「非財務目標」としてCSVコミットメントを評価指標にしております。
CSV経営を実現するためには、社会的価値と経済的価値を両立するため、各事業における投資と利益の関係性をきちんと理解しておかなければいけません。そのためにも、ROICで経済的価値を計るために、指標として取り入れたのです。
――CSV経営を発展させていくための課題は何でしょうか。
松尾 社員、特にマネージャーの意識改革がポイントです。どの社員も、目の前のステークホルダーがいて、日常の業務ではそこにしっかり対応しないといけません。ただその先に、社会課題があるということを意識して、各人の仕事をつなぎ合わせていくことが重要です。
成果も出てきています。まず、各ステークホルダーに対してコミュニケーションがうまくできるようになってきたと思っています。
例えば、昨年度、プラズマ乳酸菌が「免疫機能を維持する」機能性表示食品として消費者庁に受理されました。免疫分野における受理は日本で初のことで、CSV重点課題である健康に関する課題解決です。プラズマ乳酸菌の機能性認知向上に向けて、アカデミアとも連携しアカデミックマーケティングを推進していきます。
ヘルスサイエンス領域は新しいチャレンジであり、これから成長させるビジネスです。そのため、事業の精査をさらにしっかり行わなければいけません。持続的に成長させていくためには、経済的価値だけでは不十分で、同時に社会的価値を高めなければなりません。世の中から必要とされる企業でい続けるために、経済的価値の判断基準としてROICを採用し、社会的価値としてCSVパーパス(健康、地域社会、環境、酒類事業としての責任に関する重点課題)の実現を目標としております。
まだ道半ばですが、投資効果を重視した事業推進をブラッシュアップし、同時に社会課題の解決を実現することで、キリンは世界のCSV先進企業を目指していきます。