キリスト教が誕生した時、つまりは紀元後1世紀のころ、キリスト教の教会はローマ帝国内の一地方にある小さな集団でしかありませんでした。そしてしばしば迫害の対象となってきました。
しかし4世紀になってキリスト教がローマ帝国によって公認され、さらには国教とされると、ローマ・カトリック教会は神の教えを正確に伝える唯一無二の存在になります。そのローマ・カトリック教会にとって、決して譲ることができない教義の一つに、「予定説」がありました。
「予定説」を最初に唱えたのは、カトリックの正統教義を確立したアウグスティヌス(354~430)であるとの説もあります。アウグスティヌスは、ローマ帝国の皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教化した時代に活躍した、キリスト教の神学者です。
予定説というのは、「救われる者と救われない者は、神の永遠の意志によって、あらかじめ定められている」という考え方です。だとすれば、人は何のために神を信じ生きていくのかわからなくなりそうですが、神とは全知全能の存在であり、人間がいくら善行を積んだとしてもそれは全知全能の神の意思に影響を及ぼすわけがない、なので救済に役立つはずもない、というのです。
この説は後に、宗教改革の根本的な考え方を形成することになりました。ここでは、それについて述べてみたいと思います(今回の連載については、堀米庸三『正統と異端』中公文庫、2013年を参照のこと)。
堕落した聖職者の引き締めを図ったグレゴリウス7世
11世紀末、ローマ・カトリック教会は揺れていました。本来は禁止されている聖職者の妻帯や聖職売買が横行していたのです。これを改めようとしたのが、ローマ教皇クレゴリウス7世(在位:1073~1085)です。堕落した聖職者を戒め、教皇の権威を回復させるために、「グレゴリウス改革」を断行します。
教皇グレゴリウス7世は、対立した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を跪かせた「カノッサの屈辱」の当事者としても有名です。グレゴリウス7世の廃位を画策しながらも、逆にグレゴリウス7世によって破門されたハインリヒ4世は、王位剥奪の間際まで追い込まれます。そこで教皇の許しを請うために、極寒のカノッサで3日間裸足のまま立ち尽くしたといわれます。教皇に直接謝罪し、なんとか破門を解いてもらったこの事件が「カノッサの屈辱」です。