これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)。

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昭和55~57年:33~35歳

 広告代理店時代、メインクライアントとして担当していたスーパー・ドジャース社員に共通する「仕事を与えてやっている」的な社風に、恭平は馴染むことができなかった。

 会社の規模や業種、主従の如何を問わず、基本的にビジネスは対等であるべきだと恭平は考えていた。そのスーパー・ドジャースの広島における2店舗の従業員食堂を万鶴が委託されており、担当役員として恭平が窓口になった。

 この奇遇とも言える巡り合わせを機に、何とか過去のイメージを払拭したいと願い、2店舗の従業員食堂の献立やサービスには特に気を配っていた。

 1972年、開局10周年を記念して広島テレビ主催で「広島オープンゴルフ」が開催され、ギャラリー用の弁当販売をひろしま食品が請け負っていた。

 恭平が万鶴の専務になってからは、従業員数が多く対応力のある万鶴が、イベント関連事業を担当するように変更した。そもそも来場者の入り具合で販売数が変動するイベントでの弁当販売はロスが多く、ビジネスとしては案外なリスクもあった。

 こうしたロスを防ごうと考案した苦肉の策が、二段階メニューだった。

 当初は持参した弁当だけを売り、完売の見込みが立った時点から肉うどんの実演販売をスタートさせる。弁当は翌日に持ち越せないが、うどんや肉は冷蔵車に保管しておけば翌日も販売可能で、ロスを最小限に抑えることができると言う案配だ。

 かつて大会の最終日、見込みを大幅に超える観客が来場して弁当が売切れ、レストランに入れない空腹のギャラリーから罵声を浴びせられ、主催者からは執拗に叱られた経験から生まれた苦肉のアイデアだった。

 いずれにしても来場者数を予測するのは、実に難しい。第一に天候、次に優勝争いをする顔ぶれによって、来場者は大きく左右される。

 その年の決勝初日、パター練習場の前でジャンボ尾崎と擦れ違った恭平は、思い切って声を掛けた。