ジョージ・フロイド氏の死に抗議してタイムズスクエアを行進し、警察と衝突するデモ隊(2020年6月14日、写真:ロイター/アフロ)

(岩田 太郎:在米ジャーナリスト)

 前編(「警官が変化、米国犯罪都市が警察改革に成功した理由」)では、米国において進行中の警察解体・廃止・予算削減の議論が本当に意味することは何かを明らかにし、それでも犯罪の解決に警察が必要であるジレンマについて考察した。

 後編では、黒人が不本意ながらも警察を積極利用しなければならない社会の仕組み、警察への過度の依存を減らすべき理由、警察改革を阻む米国のあり方、表層的な改革では直せない「黒人懲罰の制度化」などを検討し、改革の行方を予想する。

なぜリスクを冒してまで黒人は通報するのか

 1960年代から1970年代に活躍した黒人活動家で、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の名誉教授であるアンジェラ・デイビス氏は、「家庭内暴力(DV)への介入は警察ではなく、ジェンダー暴力を専門とする社会的サービス組織が行うべきだ」と主張している。呼ばれた警察が妻子の目の前で、夫であり父親である男性を射殺するケースが後を絶たないからだ。

 しかし、自身が黒人女性であるエール大学法学部のモニカ・ベル准教授は、「低収入の黒人は警察を信用していないにもかかわらず、より豊かな白人より多くの通報を行う」事実に注目している。

 特に、貧しい黒人女性は自身のパートナーや子供のことで頻繁に警察を呼ぶというのだ。愛する者の逮捕や射殺の危険があるにもかかわらず、なぜなのか。ベル教授は、「警察が現れることで改心を促し、セラピーや福祉など社会的サービスに助けを求められるようにする」戦術なのだと説明する。

 一方、ある黒人女性は治安の悪い集合住宅で、自身の娘を脅迫した少女を警察に通報した。そのことで少女は逮捕され、危険が去ったのみならず、その女性は別の棟に引っ越すことができ、ある種の短期的な「解決」につながったというのだ。

 また、多くの黒人の母親たちは不登校の子供のことで警察を呼ぶ。それによって児童福祉相談所からネグレクトの調査を受けることが避けられるばかりか、不登校の子の親を収監する厳罰制度からも逃れられる。

 つまり、貧しい黒人家庭を構造的に縛る罰則制度や、行き場のない社会的なジレンマから逃れる手段として、リスクを伴う通報が行われていることになる。貧困層の黒人は、裕福な白人が利用できるサービスや制度が利用できない場合が多いため、仕方なく警察に頼らなければならない面があるのだ。

警察への過度な依存を減らすべき

 このように、黒人のサバイバル戦術としての通報文化があるものの、警察への依存がコミュニティの持続性を失わせるレベルに達していることは確かだ。ニューヨーク市立大学ブルックリン校のアレックス・ビタール教授が指摘するように、警察官の主な時間は強盗や殺人など犯罪対処ではなく、非犯罪案件への介入が大半を占める。生活の些細な事柄を警察に任せることが、恒常的に事態の暴力的エスカレーションを招く。

 ジョージタウン大学法学部のクリスティー・ロペス教授は、「いわゆる警察改革や法改正は効果がなく、警察が法の支配に従うことを期待することも十分な結果を得られない」と指摘し、「われわれ市民が警察への過度な依存を減らすべきなのだ」と論じている

 ロペス教授によれば、米国社会は「必ずしも警察の介入が必要ではなく、常識や経験に基づく方法で解決できる事柄にまで法執行を呼び込み、事態をこじらせる」ようになったのだという。

 ニューヨーク市のセントラルパークで、犬の散歩をしていた白人女性に黒人男性が「ルールどおりに犬は鎖に繋いでください」と注意したところ、白人女性が警察に「黒人に脅かされている」と通報をしたという事件は、その典型例だ。

 また、白人警官のデレク・ショービン容疑者(44)に拘束・殺害された黒人男性ジョージ・フロイド氏(享年46)が意図的に偽造の20ドル札を使用したかどうかもわからないのに、後日の取り調べのため本人の出頭を求める代わりに、即座に事態を暴力で「解決」しようとする。

 ホームレスや精神疾患を持つ人を見れば、排除のために警察を呼ぶ。学校は問題を起こした子供に向き合って話し合い、懲戒処分を下す代わりに、即座に警察の介入を求めて逮捕させる。近所や家庭内のつまらない口論を通報して大事(おおごと)にする。「どんな些細なことでも通報を」とする文化の末路だ。米メディアも、「24時間警察密着取材」のような番組を制作することで、通報大好き文化を煽ってきた共犯者である。

 国家の暴力装置である警察は、社会の矮小な問題を即座に銃や締め技で解決しようとするため、辛抱強くコミュニティ全体で取り組めば解決できる事態でも、最悪の結末を迎える場合が多い。事実、貧困を犯罪化し、年間1000万件の逮捕を行い、人口10万人あたり約700人に相当する230万人を投獄しても、米国社会は一向に安全にならなかったのである。

 ロペス教授は、警察解体を求める声が、「警察廃止」を求めているところに着目する。黒人を縛り、身体と命を搾取してきた「奴隷制廃止」という言葉遣いと共通性が認められるからだ。

 だが、警察を廃止しても、警察が体現する米国の病巣はなくならないと、同教授は看破する。

国や社会のあり方が問題

 シラキュース大学で政治学を教えるジェン・ジャクソン教授も、「警察改革は効果がない」と断言している。人種偏見をなくす訓練も、ボディカメラの装着義務化も、暴力的な手段の抑制訓練も、警官による丸腰黒人の殺害を止めてはいない。法律改正も裁判所の命令も効果がなかった。

 また、オバマ前政権が定めた「6つの取り締まりの柱」、すなわち軍人ではなく守護者のように振る舞う、コミュニティと共同で活動と監視を行う、訓練の質を向上させる、などもカムデンなど少数の比較的「成功」を収めている都市を除けば、無視された状態だ。

 類似のプログラムとして、「締め技禁止」「エスカレート緩和」「銃撃の前の事前警告」「銃の使用の前にすべての手段を尽くす」「動く車両を撃たない」などを定めた8つの原則も、見事に失敗している。ジャクソン教授は、「これらの改革は警察の自己浄化への依存を強めるだけで、コミュニティに権力を移譲していないからだ」と指摘する。

「8 Can’t Wait」の8つの原則で、警察暴力が72%減少したとする宣伝(出典: Campaign Zero
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 また、銃規制を行わない限り、警察の丸腰市民に対する過剰反応はなくならないのだが、憲法レベルでの改革を必要とするため、党派的に社会分断の進んだ米国ではできない相談だ。さらに、連邦政府による麻薬撲滅のための予算、軍で不要になった武器の払い下げなどにより、米警察は何十年もかけて軍事組織化しており、その精神まで軍事組織化している。このような組織が「市民に奉仕を」とのモットーを掲げても、内実は市民を潜在敵とみなす、組織防衛のための組織であることに変わりはない。そこに、市民と警官の相互信頼は存在できないのである。

 加えて、連邦・州・自治体レベルで選挙に重大な影響力を持つ警察労組が、警官の免責の取り上げや犯罪処罰の法制化を阻むロビー活動を強力に展開するため、法律改正は進まず、成立しても骨抜きの内容にしかならない。さらに警察は検察や裁判所をも「掌握」しており、警官の犯罪に対する起訴や有罪は極めて勝ち取りにくい。法の改正は運用面で如何様(いかよう)にも無力化でき、まさに「仏作って魂入れず」であるし、警察予算削減も朝三暮四に過ぎない。

 それが問題であるとわかっていても、変革を受け入れたくないアメリカ人のメンタリティも大きな壁となって立ちふさがる。こうして見てくると、警察改革は組織の解体・廃止レベルの話ではなく、国や社会のあり方そのものが問題であるとの結論に行き着くのである。

国の成り立ちとしての黒人憎悪

 最後に、エール大学の政治学部で博士課程に在学するグエン・プラウズ氏が指摘するように、「米国では構造的な懲罰的制度で、黒人を他人種と比べてはるかに厳しく罰してきた」ことを忘れてはならないだろう。

 白人が黒人に峻烈な処罰感情を抱き続ける限り、警察改革は効力を持ち得ない。その処罰感情は、奴隷化、リンチ、罪に見合わない厳罰、推定有罪による行動の監視、微罪による黒人の大量収監などに一貫して現れてきた。また、警察や検察や裁判所の組織構造が、それに合わせて発展し、固定化されてきたことも見逃せない。

 事実、南部における警察は18世紀および19世紀の逃亡奴隷に対する捕縛パトロールにルーツがあり、北部においては19世紀初頭に労働争議やスト、暴動鎮圧のための組織が警察として発展してきた歴史がある。

 こうした歴史を踏まえてプラウズ氏は、「警察改革に焦点を合わせてしまうと、人々の生活が繁栄するために国家は住宅供給や医療や教育などの分野で何をなすべきかという、最も重要な点が忘れ去られてしまう」と述べている。

 だが、米国で過去200年以上にわたり黒人が置かれた変わらぬ絶望的な状況を見ると、米国は国の成り立ちとして、住宅や医療や教育で黒人を幸福にすることを拒絶し続け、代わりに峻烈な処罰のみを与えてきたことに思い至る。ただ罰するために罰するのである。

 だから、今回の局面における一連の黒人暴動も、いつものガス抜きのプロセスに過ぎず、警察改革もリップサービスに終わるだろう。それが現在、超党派で検討される「改革」のわかりやす過ぎる帰結なのだ。