1976年に同学科を卒業し、教員を務めているエジプト人男性は卒論に関して次のように語った。

「カイロ大学文学部社会学科(1学年約150人)では、全員が卒論を書かなくてはなりません。4年生の1年間は卒論を書くためのプロジェクト立案、資料集め、インタビューなどに追われます。私の卒論のテーマは、『職業集団としての猿の調教師』で、分量はアラビア語で80~90ページでした。他の学生の卒論のテーマは、教育、社会統制、カイロの貧民街、犯罪学というようなものでした。4年次は、卒論以外にもフィールドワークがあり、12科目程度の講義も取らなくてはならず、試験もあります」

 同氏の証言によると、卒論は4年次の1年間(1学年は10月に始まり、翌年6月に終わるので、実質9カ月程度)をかけて材料を集め、アラビア語で80~90ページを書くもので、通常の12科目程度の授業のかたわらに作業をしなくてはならず、相当大変なものである。もし本当に卒論を書いていたら、忘れるなどということはあり得ない。小池氏が、弁護士を通じて卒論はなかったと回答していること自体、氏が卒業していない(あるいは「正規のルート」では卒業していない)ことを顕著に示しているのではないだろうか。『虚飾の履歴書』にも小池氏が卒論を書いていた様子についての証言は出て来ない。

 小池氏は、カイロ大学で何を勉強したのかについても、説明らしい説明はしていない。一方、前述のエジプト人男性は、「私は社会学と人類学に関心があるので、社会変化、健康・病気・文化、社会人類学、都市・農村・紅海や地中海付近のベドウィンの家族システム、子どもの名付け方などについて勉強した」と率直に述べている。

そもそもカイロ大学の講義に出席していたのか?

 小池氏の『振り袖、ピラミッドを登る』では10ページから58ページまでカイロ大学での1年目の様子が書かれている。しかし、2年目以降の様子がまったく書かれておらず、59ページ目にいきなり4年目に最後の試験に合格し、卒業できることになったとある。

 本来であれば、学年を進むにつれ、勉強は専門的になる。4年次には卒論もあり、また卒業がかかった試験もあり、相当に大変なはずで、忘れたくても忘れられない様々な思い出があるのが自然だ。

 しかし、そうした記述は一切なく、カイロに来て3回目の夏にレバノンに旅行し「快適な旅を楽しんだ」ことや、レバノンで買った中古のフィアットを引き取るため、エジプト北部の港町アレキサンドリアに4回足を運び、女の涙を武器に税関吏と交渉したことなどが書かれているだけだ。2年目以降、きちんと大学に出席した印象は受けない。

カイロ大学(写真:AP/アフロ)

 実際、小池氏と同じ時期にカイロ大学に在籍していた人々に話を聞くと、大学では小池氏をほとんど見たことがないという人ばかりだった。