先日、東方経済フォーラム取材のためのウラジオストク出張を終え、モスクワに戻ってきた。同フォーラムには安倍晋三首相も4年連続で出席しており、経済界の大物の姿も多く、ロシアにいながらにして日本の要人と会える絶好の取材機会である。
フォーラムは、市中心部から車で40分ほど南に行ったところにあるルースキー島の中で行われた。ルースキー島に位置する極東連邦大学のキャンパスがメイン会場であり、記者たちは、大学敷地内のホテルに寝泊りする。
フォーラム自体は3日間あるのだが、2日目の日露首脳会談が終わると、とたんに人がいなくなる。
そこで仕事が少ない3日目は島に閉じこもるのをやめ、マリインスキー劇場の別館を訪れて日本人バレエダンサーの取材をした。日本人が9人も活躍している国際色豊かな劇場だ。
せっかくなので市内で昼食をとろうと、中心部に向かった。バス代は、どこまで乗っても23ルーブル(約40円)だ。
おんぼろバスの中でふと、自分がワクワクしているのに気づいた。あと1週間くらい、ウラジオストクに残りたいとさえ思った。
仕事をほぼ終えた開放感もあるかもしれないが、私にとってこの気持ちは、思いがけないものであった。
なぜなら私にとってウラジオストクとは、「黒歴史」の舞台であり、自分の人生から消し去りたい存在だったからだ。
生まれて初めて行った海外こそ、ロシア・ウラジオストクだった。
2004年の夏、大学3年生だった私は、北方領土問題への関心がきっかけで、アルファベットしか読めない状態なのに、1か月の短期語学留学という形で現地に乗り込んだ。