母国の苦しみを外地から見ているのも、大変つらい。状況を頭では分かっても、困難を共有できない苦しみというのもある。

福島の原発事故で一変した雰囲気

3月14日(月曜日)午後12時。青年同盟の動員と思われる学生たち約100人が手に手に白いカーネーションを持って、大使館前に集合、花の山を築いて戻っていった。青年の集まりでよくある笑い声などもまったくなく、淡々と、かつ丁重な献花であった。1月には同じ青年たちが日本におけるロシア国旗侮辱に対して、大使館に対して抗議を行っている

 3月11日、夕方のテレビニュースで東日本巨大地震(東北地方太平洋沖地震)の被害を知ったロシア人の友人たちから次々と電話がかかる。

 内容はすべて、私の家族、会社のスタッフの安否問い合わせ、ならびに大変な目に遭っている日本の被害者への連帯宣言である。

 中には、私がモスクワで仕事をしているのなら、この際家族をモスクワに呼び寄せればよいではないか、その方がそもそも自然だよ、というものもあった。 

 しかるに、3月12日、福島原発のトラブルが報道され、そして建屋が爆発するにおよび、電話はぐっと減った。

 要するに事故は継続中で、この先この事故がどんな展開をするのか、もう誰にも分からなくなったからだ。

 私の昔からのパートナーで産業技術に強い友人は、チェルノブイリとの原発システムの違いを述べ、だから福島は安全性が高い、我が国の専門家も最悪の事態は避けられるという意見であることを伝えてくれた。

ソ連はチェルノブイリで国家を崩壊させた

 しかし、ほかの友人たちは、しばらく福島の様子を注視しよう、という反応に変わった。

 チェルノブイリ事故を1986年に経験しているロシア(当時はソ連)国民は、表面には出さないが原発に対する警戒感は極めて強い。また、この事故が契機となりグラースノスチ(情報公開)を展開するゴルバチョフがソ連を崩壊に導いた、と言うこともできる。

 従い、ロシアでは原発事故という言葉は、社会体制さえ変えかねない重みを持ち、それゆえ国民を身構えさせる。このテーマには、他国の事故とはいえ、簡単に論ずるには相応しくない重みがある。

 先週末の3月12日、土曜日にもかかわらず、ウラジーミル・プーチン首相は日本への支援策を協議するための臨時会議を招集した。