前回、中国が海禁政策を取り朝貢貿易中心へと政策転換したことが、世界最高水準にあった海運力を衰退させ、これが中国経済にとって致命的な問題を招いてしまったということを述べました(「世界最高水準の海運力を朝貢で失った明代中国の悲劇」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55162)。今回は、その続編をお届けしようと思います。
中国に銀を運んだポルトガルとスペイン
世界の歴史を俯瞰すると、19世紀初頭ごろまで、世界で最も豊かな国は、中国であり、それに次ぐのがインドでした。この二大経済大国に比べて相対的に貧しかったヨーロッパは、中国からは絹織物や陶磁器、茶など、インドからは綿などを輸入していました。それに代わる対価を、ヨーロッパ諸国は銀で支払っていたのです。本来ならばヨーロッパの特産品である毛織物を売ることで対価としたかったはずですが、アジアでは毛織物の需要はあまりなかったのです。
特に中国では、銀の需要が高かったのです。それは15世紀に採用された一条鞭法にしても、康熙帝の時代に導入された地丁銀制にしても、銀による納税システムが採用されていたからでした。ところが銀は中国国内ではほぼ産出されません。そこで外国から銀を得る必要があったのです。
中国に対する銀の主要な供給元となったのは、まず日本でした。その頃、日本の銀生産高は、世界の3分の1を占めていました。日本銀の産出量は、ボリビアのポトシ銀山に匹敵していたといわれています。日本は中国から綿、絹、生糸、茶などを輸入していたので、その代価として銀を充てていたのです。
主要な銀山は、島根の石見銀山でした。この日本銀を中国まで運ぶのに活躍したのは、日本人ではありません。というのも、16世紀の安土桃山時代から、日本が外国と正規の貿易ができるのは長崎で、しかも特定の国との間とだけ可能になっていました。つまりポルトガルやオランダ、中国です。主に活躍したのは、ポルトガル人やオランダ人です。彼らが中国で買い付けた生糸などの長崎に持ち込み、対価として受け取った銀を、今度は中国に運び込んだのです。
中国に運び込まれる銀は、日本産だけではありませんでした。新世界で産出された銀も持ち込まれたのです。この輸送を担ったのはスペインでした。メキシコのアカプルコでガレオン船に銀を積み、そこからフィリピンのマニラに運びます。マニラに到着した銀は、今度は中国のジャンク船によってマカオへと輸送されたのです。
拡大画像表示
ガレオン船は多いものでは4~5本のマストを備え、喫水が浅く、スピードが出ました。そして、砲撃戦にも適していた。そのため従来、遠洋航海に用いられてきたカラック船やカラヴェル船に取って代わり、広く使われるようになったのです。