香港のビクトリアハーバーに浮かぶ現代の観光用ジャンク船

 これまでの連載で、秦の始皇帝や漢の武帝は、中央集権体制を強化し、国家によるインフラ投資と経済制度の整備を進めることで、経済成長を強力に後押ししてきたことを述べてきました(参照:『中国文明を経済成長路線へ乗せた始皇帝の「剛腕」』『国営事業で財政再建、武帝が見せた超絶経営センス』)。

 同じことは、元の時代にもあてはまります。またそれに次ぐ、明代でも当初は優れた経済政策がとられていましたが、やがて将来を大きく左右する方針転換が図られます。明の時代には、海上発展をやめ、冊封体制をとり、朝貢貿易を強化したのですが、このことが結果的に海上輸送を利用した流通の衰退を招いてしまいうのです。それはのちのち、中国経済に大きなマイナスをもたらすことになってしまうのでした。

ユーラシア大陸に跨る巨大帝国

 中国の歴史を振り返ると、北方の民族が漢民族の王朝を倒し、征服王朝を確立するというパターンはしばしば見られました。さしずめ、モンゴル帝国はその代表格と言えるでしょう。

 1206年、モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれたチンギス・ハンが、諸部族を統一してモンゴル帝国を建国します。そのチンギス・ハンは、大規模な領土拡大戦争を仕掛け、その支配地はモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンまで広がりました。

 さらに第2代皇帝のオゴデイ(オゴタイ)・ハン、第3代のグユク・ハン、第4代モンケ・ハンの治世でも着々と領土を広げ、第5第皇帝のクビライ(フビライ)・ハンの時代に、最大版図に達します。ユーラシア大陸にまたがる大帝国です。

 このクビライの時代に、正式に国号を元と定め、国の都を大都(現在の北京)としました。

【図1】モンゴル帝国の最大版図 ©アクアスピリット
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 このように書いてしまうと、モンゴル帝国は戦争ばかりしていた軍事国家というイメージを持つかも知れません。それは間違いではないのですが、一方で元は、商業を非常に重視する側面も持っていました。経済成長を促進するため、いくつもの制度を作ったのです。