少々余談になりますが、14世紀中頃、ヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行し、2000万~3000万人もの人が命を落としています。

 実はヨーロッパでの大流行の前に、中国から中央アジアで黒死病は猛威を振るい、やはり大勢の人の命を奪っています。それが中欧アジアからヨーロッパに伝播したのは、ペスト菌を媒介するノミが付いていた毛皮がイタリアに輸出されたからとも、ノミが寄生したクマネズミが交易活動とともにヨーロッパに持ち込まれたからとも、言われていますいます。

 元代の安定的な治世と、その広範な商業ネットワークがなかったら、14世紀のヨーロッパで黒死病が流行することはなかったのかも知れません。

将兵2万7800人を引き連れた鄭和の大艦隊

 栄華を誇った元でしたが、政治の腐敗や相次ぐ天災などの影響で衰退し始めると、農民たちの大規模な反乱が起こります。その中で頭角を現した朱元璋によって明が建国されたのは、1368年のことでした。

 明は、15世紀初頭の永楽帝(在位 1402-24)の時代に、宦官でムスリムの鄭和を、アラビア半島やアフリカ東岸にまで船で遠征させるという積極的な対外政策を実施します。

 鄭和の旅は、主にイスラム教徒が活躍する諸国を回る旅でしたが、最初の航海の際には、将兵2万7800人余りを、世界最高水準の造船技術でつくられた8000トンクラスの大船62隻(一説には200隻とも)に分乗させて出発したそうです。

 こうした航海を鄭和は7度も行いますが、その目的は、中国の文物を売り、代わりに各国の珍しい品を購入してくること、そして諸国に中国に貿易に来るよう勧誘して回ることでした。

【図2】鄭和の遠征図 ©アクアスピリット
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 しかし、1424年に永楽帝が亡くなると、明はこのような積極的な対外進出を止め、いわゆる「海禁政策」を取るようになります。1436年には、大洋航海用の船舶の建造が中止されてしまいます。