聖樹の前に立つアッシュールナシルパル2世のレリーフ。アッシュールナシルパル2世は新アッシリア王国の王(在位:前883年-前859年)

 よく知られているように、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川の間の地域で誕生しました。

 2つの大河に挟まれた「肥沃な三日月地帯」の土壌は非常に豊かであったために、人類が農耕による食料生産を始めたのもこの地でした。

 言うなれば、当時、世界で最も先進的な文明が築かれたのがメソポタミアの地でした。ところがその後、メソポタミアは四大文明が築かれた他の地域――例えば中国に、経済発展という点では追い抜かれてしまいます。今回はその理由を探ってみたいと思います。

メソポタミアの農耕を支えた高度な灌漑システム

 メソポタミアでは、遅くとも前7000年頃からは農作物が栽培されるようになったと考えられています。ただ今年(2018年)7月、ヨルダンの遺跡から1万4500年前のパンの残骸が発見されました。農耕が始まる前に野生の穀物を採取して作ったものと見られていますが、もしかすると農耕文明の起源が一挙にさかのぼる発見なのかも知れません。

 それはさておき、メソポタミアの農耕文明の特徴は、高度な灌漑システムにありました。絶えず灌漑をすることで、農業生産性を高めたのです。

 青柳正規・東京大学名誉教授によれば、南メソポタミアは、ティグリス・ユーフラテス川がしばしば氾濫するために、沼地の多い低地で、そのままでは耕作地にはなりませんでした。ただ、沼地に排水用の運河を引き、その水を利用した灌漑設備を整えさえすれば豊かな耕作地になる可能性を秘めていました。