日本の、あまり考えのない政治家が11月23日、「国賓」としてわが国を訪れる賓客のパートナーを性別によって拒否すべき、といった不用意な発言をして、大いに批判されました。
ところが、その後もいけなかった。
この政治家は翌日、「言うべきではなかった」という「反省」を口にし「私の周辺にも同性パートナーをもつ人はいる」としたうえで、「ただ、皇室を考えた場合、日本人のメンタリティとしてどうかという思いがあった」という「釈明」をしました。
これをもってメディアは一件落着とするようですが、儀式として手順を踏むのではなく、何を言っているか、よく考えてみたいと思うのです。
つまり、「身の回り」には「同性カップル」がいるけれど、「皇室」を考えると「国賓」として海外からVIPを「お・も・て・な・し」しながら、伴侶を宮中晩餐会に招待せずホテルなり宿舎なりにポツンとおき去る外交(晩餐はあきらかに外交行事ですから)が「日本人のメンタリティとして」妥当だと、腹の中で思っていると言っている。
この程度の見識の人物が、思わず本音を口にしてしまい「言うべきではなかった」と、またしても天然ぶりを晒しているわけでしょう。
これはもう、丁寧に翻訳されて国際語で広く報道されたら、いったい日本の政治リーダーはどれくらい人権感覚がおかしな人が混ざっているのかと呆れられ、国としての信用を著しく失墜しかねません。まことに情けない現実と言うしかありません。
ここで、とりわけよくないのが、しばしば草の根右翼などが用いる「日本人のメンタリティ」なる嘘八百です。
そんなものがあった試しは、奈良飛鳥時代から21世紀まで本当はかつて一度もない。
「日本人」なんて大括りでメンタリティが束ねられるのはせいぜい戦後のことで、かつては、例えば同じ大阪と言っても河内と和泉と摂津だってぜんぜん違うメンタリティ、これはいまでもそうかもしれません。
「肥後もっこす」とか「道産子」とか「上州かかあ天下」とか、ローカルな気性を現す言葉も日本語には枚挙に暇がありません。