かつて、電子戦について紹介されたテキストがあり、その中で電波の妨害を受けるとレーダーの画面がどうなるといったことが記述されていた記憶がある。

情報への無関心で負けた太平洋戦争

「日本の偵察機は容赦なく撃墜」、北朝鮮空軍が警告

航空自衛隊の早期警戒管制機「E-767」〔AFPBB News

 そのテキストを見てから40年近い年月が経ち、改めてこの分野の状況を見ると、部分的に新たな技術動向や、脅威である敵のレーダーやミサイルの進歩に対応した性能向上が図られているが、基本的には旧態依然としているという印象が否めない。

 なぜなのだろうかということをかねて考えていたが、ここに私の経験の一端を紹介しながら分析を試みてみたいと思う。

 実松譲氏の著した『日米情報戦』や、太平洋戦争に関わる戦記ものと言われる各種の本を読むと、日本人というのは情報という問題について極めてルーズというか、無関心な文化を持った国民なのではないかと思えてしまう。

 太平洋戦争という日本にとっては直近の戦争においてこのような状態であったということの再認識と、それゆえに多くの現場の将兵の犠牲にもかかわらず戦争に負けたということについて、戦争を指導した階層の責任と指導における情報の収集と活用について根本的なところまで掘り下げて見直す必要があると感じる。

 電子戦や情報に関わる文献を読むと、特に翻訳をする時に、気づくのは、「INFORMATION」も「INTELLIGENCE」も日本語に翻訳すると両方とも「情報」になってしまうということである。

情報に対する異質さは、世界からの孤立を意味する

 もしかすると、この分野の翻訳文献などではこの両者を混同したままで翻訳されているものがあるのではないだろうか。

 逆に注目すべき点は、日本以外では「INFORMATION」と「INTELLIGENCE」が完全に異なる標記で個別に定義されているという点である。

 言葉が文化を背景にしており、また人間の思考が言葉を介して行われるという実態からすると、日本と欧米の差異は実は極めて大きな隔絶を日本と欧米の間に生む可能性があり、かつ日本にとって極めて不利な状況を作り出す可能性があるのではないだろうか。

 隣の中国は孫子を生んだ国である。欧米のみならず中国を含め、日本の情報を扱う文化がそれらの国々と比較して異質ならば、日本は世界から孤立しても不思議ではないように思われる。