核燃料サイクルの「残された目的」

 核武装は、戦後の保守政治家の念願だった。日本が第2次大戦の屈辱から立ち直り、一人前の国として自立するためには、アメリカに依存しない自前の軍事力が必要であり、その中心は核兵器だと考えたからだ。

 中曽根康弘や正力松太郎は、1950年代に科学技術庁や原子力委員会をつくって原子力の「平和利用」を進めた。1956年に制定された原子力開発利用長期計画で、使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出し高速増殖炉(FBR)で再利用する核燃料サイクルの方針が決まった。

 当初は原子力開発が積極的に推進されたが、1960年代に中国などが核兵器の開発を進めると、核拡散防止条約(NPT)が締結された。アメリカは70年代にカーター政権が核燃料サイクルをやめる方向に舵を切り、日本もプルトニウムを生産する再処理をやめるように求めた。

 しかし日本は核燃料サイクルに執着した。通産省は「使うほど増える夢のエネルギー」といわれたFBRで日本のエネルギー自給率を高めようと考え、中曽根首相はアメリカのレーガン大統領と交渉し、非核保有国として日本だけに核燃料サイクルを認める日米原子力協定が1988年に結ばれた。

 ところが核燃料サイクルは、誤算の連続だった。FBRの原型炉「もんじゅ」は建設開始から20年たっても稼働しないまま廃炉が決まり、青森県六ヶ所村の再処理工場は宙に浮いてしまった。関係者によると今のままでも稼働は2年以上先で、無期延期になるおそれが強い。ほとんどの原発が止まったままで47トンのプルトニウム(原爆6000発分)を消費するには50年以上かかる。

 そんな中で、来年7月に日米原子力協定の30年の期限が来る。今のところアメリカは自動延長の方針だというが、もともと核拡散には反対なので、どうなるかは不透明だ。ここまで日本が核燃料サイクルに固執する目的は、アメリカから見ると1つしか残っていない――日本が核武装のオプションを残そうとしているということだ。

 もちろん日本政府は「そんなことは考えていない」とアメリカに説明するだろうが、六ヶ所村の再処理工場では、国際原子力機関(IAEA)の査察官が24時間体制でプルトニウムの量を監視している。日本がその量をごまかして核兵器をつくるのを防ぐためだ。