死後も納税? 仏当局、墓の下の死者に資産税請求

仏パリのペール・ラシェーズ墓地にある石の十字架〔AFPBB News

 江戸=東京の「五色不動」を訪ねる小さな旅。トランプ政権の陥穴などを記す方がビューは立つと思いますが、かまびすしい世間の雑音の中で、底流を流れる静かな基調音に耳を澄ませるのも大事なことと思います。

前回も記したとおり、天保あたりの川柳に、

 五色にはふたいろ足らぬ不動かな

 と歌われたように、本来の「目の字のつく江戸のお不動さま」は目黒と目白、それに家光将軍がお鷹狩りの折に立ち寄った、現在は不忍通り、動坂あたりの「伊賀・赤目不動」を「目赤不動」と改めた駒込南谷寺の3つが知られていました。

 家光将軍が定めたとあることから露骨なように、江戸時代までの寺社は幕府の支配化にネットワーク化されていました。

 と言うか、もっと露骨に言うなら、幕府の徴税機関そのものだった。

 お寺が徴税と言うと、はてなという顔をされることがありますが、寺院は誕生と死亡を管理する「過去帳」つまり、人頭税を挑発する基本台帳「人別帳」を調えた機関として、全国的に組織され、「寺社奉行」がこれを統括していました。

 こうした宗教組織を軸に全国の戸籍を整える方法は遠く欧州からもたらされました。

 1517年、ドイツのヴィッテンベルクで火を噴いた宗教改革によってアルプス以北の多くの欧州植民地を失ったローマ・カトリック~ラテン圏が「対抗宗教改革」として東アジアや中南米など、世界に宣教師を遣わした。

 その経路を通じて日本にももたらされ、織田信長がこれを基本的に認めて織豊政権で日本国内にも適用されます。そして、「太閤検地」で全国あまねく浸透したものを徳川幕府が永続化したと言って外れはないでしょう。

 1590年、小田原攻めに勝利した秀吉は「太閤」を名乗るようになりますが、それよりはるか以前、山崎に明智光秀を討って主君信長のかたきを取ったと公称し始めた直後から、山崎近辺の寺社地から台帳を集めるなど「検地」を本格化させています。

 秀吉は何より下から這い上がった人ですから、小さいときからちやほやされて育った殿様2世とは発想も実行力も全く違います。

「家制度」前提のビジネスモデル

 今の言葉で「戸籍」と「検地」と言えば距離を感じるかもしれません。が、戦国末期の天正時代に「核家族」などの概念は存在せず、どのような境涯の人でも当時の日本人は1人では生きていけなかった。

 共同体があり、それに属することで食べていくことができる仕組み、つまり「封建体制」の中でのみ、生存することができた。

 基本的な縁を絶つこと、つまり「村八分」などの「シカト」は、今風に考えるなら、いわば北朝鮮の経済封鎖と似たようなもので、貨幣経済はおろか物々交換からも締め出され、まともな暮らしが不可能であることを意味していました。