「本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。
企業を取り巻く利害関係者との関係を表す「(その3)共存共栄」は「本流トヨタ方式」の根幹を成す考え方であり、行動規範でもあるので、詳しく説明しています。
前回まで、「共存共栄」を語りながら、トヨタ自動車の歴史に触れてきました。今回は「共存共栄」の圧巻とも言うべき、宿命のライバル、ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁会社NUMMI設立(1984年)についてお話しします。
「工販分離」で成長していった50年代
ここまでのお話を少し振り返りましょう。
終戦後のデフレ政策でトヨタは資金繰りに困り、倒産寸前の状態にまで追い込まれました。
そのトヨタに対して銀行団は、
(1)資金繰り悪化の再発防止のために、性質の全く異なる2つの資金、つまり研究・開発・製造に回す資金と、広告宣伝やローンのなど販売促進に使う資金を別々に管理すること、
(2)余剰人員を削減すること、
を条件に融資を行いました。
50年、解雇の責任を取って創業者の豊田喜一郎社長は辞任し、トヨタは大番頭を自認する石田退三社長率いる「トヨタ自工」と、販売の神様と言われた神谷正太郎社長の「トヨタ自販」の2社に分離され、再出発しました。
再出発して間もなく、日本国中が「朝鮮特需」に沸き、景気が回復します。トヨタ自工は市場の伸びを先読みし、先手を打って、59年に乗用車専門の元町工場を建設し、「クラウン」「コロナ」を発売します。66年には大衆車専門の高岡工場を建設し、「カローラ」を発売。70年には小型車専門の堤工場を建設し、「セリカ」を発売します。同時に月産能力16万台規模の自動車の生産クラスターを豊田地区に完成させたのでした。
一方、トヨタ自販は運転教習所や整備士学校を作り、地方の有力者の協力を得て5チャンネルの強固な販売網を完成させ、国内でトップの座を揺るぎないモノにしていきました。
さらにトヨタは東南アジアや南米にも進出を試みます。完成車の輸入制限国には工場を建て、「CKD方式」(部品を20台分セットにして木箱に詰めて現地に送り、それを現地で組み立てる方式)で足場を築いていきました。当時は小規模でしたが海外工場生産もトヨタ自販の管轄でした。
57年にはトヨタ自販が「米国トヨタ自動車販売(TMS)」を設立します。クラウンは不評でしたが、コロナ、カローラで実績を伸ばしていました。