ホルムズ海峡での商船護衛、対象国拡大の可能性 米国

イラン南部沖のホルムズ海峡で行った軍事演習で、イラン革命防衛隊の攻撃を受けた艦艇(2015年2月25日)〔AFPBB News

 安保法案の審議の場は参院に移った。衆議院平和安全法制特別委員会の終盤で「自衛隊内部文書」を野党が持ち出し、イラクでの「非戦闘地域」は実は「戦闘地域」(にも似た状況)ではなかったかと問い質している。

 特別委では現場をしっかり認識した論戦こそが必要なことであり、リスクと同時に、派遣などの必要性を国民に理解させることが不可欠なことであった。

 イラク派遣などを参考にしながら、いま現在、日本の安全を直接脅かす事象が顕現している国際情勢をしっかり議論し、それにいかに対処すべきかを正面から真摯に考えるのが安保法制の審議ではなかっただろうか。

 しかるに、無責任野党に成り果てた民主党は、対案も示さず「9条が許さない」とか、「憲法違反だ」「戦争法案だ」などと二昔も前に帰ったかのような神学論争に持ち込み、国民の理解を妨げる方向に誘導した感が強い。

自衛隊の海外派遣経緯

 以下、特別委の終盤で問題になってきた自衛隊の海外派遣、特に「非戦闘地域」について、シビリアン・コントロールの観点から検証する。

 自衛隊は設立当初より日本国憲法第9条の制約から、専守防衛のための『必要最少限度の実力』として整備された。海外展開はそれを超えるものとして政府は行なわないようにし、1954年(昭和29年)6月2日、参議院では「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」をしている。

 1958年(昭和33年)、国際連合レバノン監視団(UNOGIL)に自衛官の停戦監視要員10人を要請されたが、自衛隊法や防衛庁設置法に抵触する恐れがあるとして断る。

 冷戦の後期になると、米軍に限った海外での共同演習が行なわれ、海上自衛隊が1980年(昭和55年)から環太平洋合同演習(Rimpac)に参加する。

 冷戦の終結や好景気を背景とした日本の海外進出の進展による国民意識の変化、そして湾岸戦争における多大の経済支援が評価されなかったという屈辱もあり、1991年(平成3年)、日本は初めて海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。

 翌1992年に陸上自衛隊はカンボジアPKO(平和維持活動)を派遣するが、携行する機関銃を1丁にするか2丁にするか大きな議論になった。本来、現地で活動する派遣部隊が軍事的合理性から決めればいいことであったが、政治家たちはそれがあたかもシビリアン・コントロールでもあるかのように甚だしい勘違いをする。