「それで、『本当のところ』福島の放射線ってどうなの?」
相双地区に移り住んだ後、友人からこのような質問をよく受けます。そこには福島のことが正しく報道されていない、という不信感、同時に現場にいる人はそれ以上のことを知っているに違いない、という期待感があるようです。
確かに世に出ている情報が偏っている、あるいは物事の多面性が無視されている、と感じることは多々あります。しかし実際に暮らしていて、情報が積極的に隠されている、あるいは偽の報道がなされている、という印象はありません。
ではなぜ、人々は実際以上に事実が隠蔽されていると感じているのでしょうか。
その根底には、科学的知識と情報さえあれば問題を解決できる、という思い込みがあるのではないか、それが1年間相双地区での議論をみてきた、私の考えです。
正しい情報さえあれば解決する。そのような誤った科学信仰が、思考力・思想力の発展を妨げています。
「福島の現状について自分が分からないのは、情報が不足しているからだ」と思ってしまうことで、情報が氾濫する一方で思考も思想も発展しない。それが福島の議論における一番の問題なのかもしれません。
知識偏重の議論
知識の中に正解がある。このような思い込みの結果、放射線に関連する議論が、単なる過去の論文の持ち寄りに終始する場合も少なくありません。現地に入る研究者たちにも非常な徒労感を与えているのもこの「論文合戦」です。
「現地のデータをいくら説明しても、『でも、XXX年にXXXで出されたXXXの学説では・・・』というやたら細かい話になる。そのデータと我々のデータは背景が違う、などと説明すると、すぐ『都合の悪いデータを隠している』と言われたり、『そんな知識もないのに専門家を気取るな』と言われたりするし・・・」
住民の説明にあたっているスタッフのお話しです。住民に安心を与えたい。そう考えて現地に入った研究者も、このいたちごっこのような議論に疲れてしまっているのです。