はじめに
福岡で生まれ、福島と縁のなかった私は、震災から1年経った2012年に福島県会津若松市に移り住んだ。震災当初は大変な状況だったようだが、少なくとも2012年の時点ではその影響は強く感じなかった。むしろ、翌年からNHK大河ドラマで“八重の桜”が始まるとのことで、街は活気と期待感に溢れていた。
私が会津若松で過ごした2年半、日々の仕事に追われ、震災を常に意識していたわけではない。しかし、ある出来事が自分の中でどれほど影響力があったかを判断するには、時間が必要なこともある。南相馬に赴任した今、震災は、私にとってそういう存在だった気がする。
旭で経験した震災
2010年に東京大学医学部を卒業した後、千葉県旭市の旭中央病院で2年間の初期研修を受けた。1年目の終わりに経験した東日本大震災は非常に印象的な出来事だった。旭市は、津波によって13人が亡くなり、2人が行方不明になるなど、大きな被害を受けた。津波に飲み込まれた方が次々と救急外来に運ばれ、地獄絵図のようになった様は今も忘れることができない。その夜、断水した宿舎に帰り、テレビで被害の大きさを改めて知った。遠い東北で、街が次々と津波に飲み込まれる様には心が痛んだが、目の前の現実を放り出して東北に行くには、使命感も実力もあまりに足りなかった。その時感じた思いは、いったん胸の奥にしまわれたが、後々、私の進路選択に大きな影響を及ぼすことになった。
会津若松での外科研修
一般外科医になることを決めた私は、初期研修が終了する段階で、東京大学の外科プログラムに応募した。このプログラムは、医局に入ずとも参加することができ、また、自分で研修先の希望を出すことができた。さらに、プログラム終了後の進路については不問とするなど、参加側にとって大変寛容なものだった。