筆者が担当した2回のコラム「ネットワークが人生を変える」および「ネットワークで読み解く女性ピアニストの人生」では、人や組織を取り巻くネットワークの「構造運」について述べた。今回はココ・シャネルの大成功にとって、いかに「遠距離交際」と「リワイヤリング術」が重要であったかについて論じる。
シャネルの創始者、ココ・シャネルは孤児院で育った。そこで身につけた技術といえば、裁縫くらいしかなかった。孤児院の後、ココは1年過ごした寄宿舎を18歳で出て、お針子で生計を立てながら、売れないキャバレー歌手をしていた。
ココは生涯結婚しなかった。その代わりに貴族、大富豪、芸術家、パトロン、敵国軍人らの愛人となり、その都度、自らのファッションビジネスを拡大し、また、困難な状況を巧みに生き延びた。
ココは87歳で亡くなるまで、自らのビジネスを愛し、働き続けた。彼女は日曜が嫌いだった。
ココが1920年代以降に発表したシャネル・スーツや香水は、現代の婦人服と香水のスタンダードを確立し、今日なおクラシックとして賞賛され、売れ続けている。「ファッションは色褪せるが、スタイルだけは古びない」――彼女の本質を最もよく表す名言である。
本稿では、最新のネットワーク論の観点から、ココ・シャネルの卓越した「リワイヤリング能力」、すなわち苦境を脱し、好機を捕え、成功と繁栄をもたらす人間関係のつなぎ直し術について論じる。
悲惨な生い立ち~愛人の援助で起業
1883年にフランスの片田舎ソミュールで、行商人と洗濯女の2番目の子として生まれたやせっぽちの少女、ガブリエル・シャネル。満11歳の時、母は肺病で他界。父は去り、少女は姉妹とともにオーバジーヌの修道院付孤児院入りする。そこで裁縫などを学びながら6年過ごす。農家に託された2人の弟とは離散。
1年過ごしたムーランの寄宿舎を18歳で出ると、お針子仕事をしながらキャバレー歌手となり、「ココ」として知られるように。その頃、裕福な織物業者の御曹司で将校だったエティエンヌ・バルサンと出会い、愛人となる。
生まれて初めて味わう高級服と乗馬と贅沢三昧の日々。暇つぶしに始めた婦人帽のデザインが認められ、バルサン所有のパリのアパルトマンで、1909年にパリに帽子のアトリエを開業。
だが、より広い世間に開眼してバルサンと別れ、次にその友人で大富豪の英国人青年実業家アーサー・カペルと交際開始。1910年、カペルの資金援助により、パリに婦人帽のブティック、シャネル・モードを開業。シャネルの本格的な歴史が始まる。
こうした社会階層の高い愛人たちの尽力もあり、数年で社交界や舞台女優の話題となり、面白いようにビジネスが拡大していく。
第1次世界大戦中、それまで紳士下着に使われていたジャージ素材を婦人服に用いて大成功を収め、一躍ファッション界の寵児に。だが、愛するカペルは、1919年にカンヌで自動車事故死してしまう。愛する者と結ばれない「獅子座の女」伝説の始まり。
最高位の貴族社会、芸術家と交流
1921年、シャネル初の香水「No.5」を発売。24年、ヴェルタイマー兄弟が香水ビジネスのパートナーとなり、その後、今日まで香水事業は同家に継承される。
1925年には、婦人服に革命を起こした「シャネル・スーツ」を発表。相前後して、シャネルのミューズ(イメージモデル)となった英大貴族(英国王ジョージ5世の妻メアリーの弟)の私生児、ヴェラ・ベイト(後のロンバルディ夫人)の紹介で、その叔父ウェストミンスター公や従兄弟ウィンザー公、チャーチル(後の英首相)など、最高位の貴族社会に通じる。