フクシマからの報告を続ける。前回に続いて、福島第一原発の南側10~20キロにある福島県富岡町を訪問した報告をする。

 2011年3月11日に地震と津波で破壊された翌日、原発事故の放射能汚染のために町民約1万4000人が避難、今もほぼ全域が無人になったままの町である。前回報告したように、富岡町は原発事故直後に町全体が半径20キロの「警戒区域」にすっぽりと入ってしまったため、津波や地震で破壊された街が3年3カ月経った今もそのままになっている。

 前回は津波が破壊したままになっているJR富岡駅とその駅前商店街の現状を報告した。今回は2回に分けて、2014年5月中旬、同町内のもう1つのJR駅である常磐線「夜ノ森(よのもり)」駅とその周辺の住宅街を訪ねた報告をする。桜のトンネルで有名なこのあたりの住宅街は、今も立ち入り禁止の「帰還困難区域」の境界線が真ん中を通り、無残にぶった切られていた。

ここにもあった放射性ごみの黒いビニール袋

 高速道路(常磐道)を終点「常磐富岡」インターで降りた。夜ノ森駅へは信号を左に1度曲がるだけだ。信号は動いていた。ハンドルに手を置いたまま赤信号が変わるのを待つ。

 富岡町の中がどうなっているのか、予備知識はほとんどなかった。原発の北側の南相馬市や飯舘村を主に取材してきた私は、南側はより復興が早く進んでいるのではないかと根拠のない期待を抱いていた。一番深刻な汚染をもたらした2011年3月15日のプルーム(放射性物質を帯びたチリの雲)が北西方向に流れたことが頭にあったからだ。高濃度の土壌汚染や空間線量を示す赤や黄色のマップ記号が、いつも左上方向に赤い舌のように伸びていることも先入観になっていた。

 しかし、信号が青になってハンドルを左に切ったとたん、私はそれが甘い期待だったことを思い知らされた。飯舘村や浪江町で見たのと同じ、除染で出た放射性ごみを包む黒いビニール袋(フレキシブルコンテナパック=通称「フレコン」)が積み上げられ、あちこち丘のように盛り上がっていたからだ。道沿いにずらずらと並んでいる。飯舘村や浪江町ではパックが積み上がってピラミッドのようになっていた。こちらは城壁のようだ。

筆者撮影(以下すべて)