3月上旬、半年ぶりにフクシマを取材に訪れた。拙著『原発難民』(PHP新書)で書いた、福島県南相馬市から汚染を避けて避難生活を続ける人々を再訪するためである。福島第一原発事故からちょうど3年目の春を迎えようとしていた。
気になる知らせがメールで来ていた。3.11の直後、話を聞いた6世帯の家族のうち、最後まで山形県に避難していた2家族が引っ越した、というのだ。「子供の健康を考えると、どうしても帰る気になれない」と言っていた2家族だ。会ってみると、どちらも避難生活のストレスや子供の学校でのことで精神的に消耗し切っていた。吐血や下血などの病気にも見舞われ、身体もボロボロだった。平穏な日常生活を無理矢理奪われた3年は、あまりにも過酷な毎日だった。
(スリーマイル島原発事故現場からの報告はしばらく休んで再開します)
福島駅前のモニタリングポストの数値
3月1日は、福島県では高校で一斉に卒業式が行われる日だった。夕方だった。式が終わって帰る途中なのだろう。詰め襟やセーラー服姿の若者たちが駅前の通りにあふれていた。きらきらした笑い声がさざめいていた。
私を乗せたタクシーは、若者たちの間をかき分けるように進んだ。
「何か、もう、いつもと変わんねえな」
白髪の運転手さんがひとりごちた。
何かシュールな映画を見ているようだった。東北新幹線を降りて福島駅西口を出ると、そこに赤いデジタル数字のモニタリングポストがある。フクシマを訪ねるたびに、まずその数字を確かめ、デジカメに収めるのが私の取材の第一歩になっていた。
さきほど駅から出たとき、赤いデジタル数字が「毎時0.22マイクロシーベルト」を指していた。しかし、そのすぐ前のドーナツ店では女子高生たちがおしゃべりに興じていた。居酒屋やコンビニに人が出入りしていた。線量計さえ見なければ、それはまったく普段どおりの人々の生活だった。