ニッケイ新聞 2013年11月20~28日

 11月5日夜、聖市のイビラプエラ講堂は拍手と熱気に包まれた。今は亡きオスカー・ニーマイヤーと共に、連邦政府が贈る最高位の「文化勲章」を手にした大竹富江さん(99、京都、帰化人)は、その夜最大の拍手を浴びた。それは富江さんを、国民の一人として受け入れた伯国民の素直な賞賛の表れだった。

 翌日各伯字紙は「大竹富江は、ブラジル・ヴィジュアルアートを代表する最も著名な人物の一人」とこぞって報じた。彼女ほどはば広くブラジル社会から敬愛された日本人女性芸術家は他におらず、しかも、今なお現役で21日に百歳の誕生日を迎える。意外と少ない日本語の記録を存命の間に残しておきたい、そんな思いで取材を始めた。(児島阿佐美記者)

(1)自由を求めた明治の女性、「1年だけ」母との約束

アトリエに飾られたブルーの絵の前で、大竹富江さん

 ジョゼ・ディニース大通りから徒歩3分。長男ルイさんが設計したカンポ・ベロ区のアトリエ兼自宅で、百歳の巨匠は今も週に3度キャンパスに向かう。

 モレーナの家政婦に招き入れられアトリエを訪ねると、いつもの黒服姿で車椅子に座って記者を待っていた。

 「遠慮しないで、食べなさい。太ちゃん(アシスタント)、コーヒー入れてあげて。砂糖はいる?」。いそいそと自ら記者をもてなすと、自身もクッキーをつまみながら「それで、どんなことが聞きたいの」という表情でこちらを見た。

 聞きたいことはたくさんある。でも、まずは無難にブラジルに来た経緯から聞いてみたい。そう言うと、富江さんは「任せて」とでも言わんばかりに、ちょっとしわがれた低音の力強い声で、原稿を読むかのように滔々と語りだした。

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 富江さんは京都の材木商の家に生まれ、当時の女性としては珍しい大卒(同志社文学部)だった。2年前に渡伯していた4番目の兄・益太郎さんを追って、1936年に23歳で当地を訪れた。

 不慣れなポ語でも臆すことなくタクシーの運転手で生計を立てていた益太郎さんは、新たに貿易商を始めるため、満州で新聞記者をしていた弟をわざわざ呼びよせたという。それが5番目の兄で、「一番気が合っていた」ので、彼の来伯に便乗して富江さんは海を渡った。

 息子には比較的自由にさせた母・中久保喜美さんも、6人兄弟の末っ子だった彼女には“普通の女”としての幸せを願った。母は「絵描きなんかになってどうするの。結婚しなさい」といって聞かなかったが、娘は「どうしてもいきたい。1年で帰るから」と約束して日本を出たのだった。

 京都の良家に生まれただけに、「生け花習えとか茶の湯習えとか。女性の嗜みだといって一通り習いましたけど、じっと座って何かするって気持ちはなかった」と思い出す。着物を着た奥ゆかしい“深窓の令嬢”ではなく、お転婆娘だったようだ。

 「今でも日本に帰ると、こんなになってしまう」と言って窮屈そうに肩をすぼめてみせ、「日本にいたら絵描きになってませんね。もう帰りたいとは思いません」ときっぱり言い切った。

 特に日本の美術界は肩書きが絵の売値を左右する、かなり“独特”な世界だと聞く。

 「こちらに来てすぐシナと戦争が始まって、戻れなくなりました」と、いかにも「仕方がなかった」かのように語る富江さん。「本当に1年で帰るつもりだったんですか」とたたみ掛けるように尋ねると、「分かりませんね。ずっと外に出て仕事がしたかったから」と冗談っぽくはぐらかした。きっと、もともと帰る気などなかったに違いない。