中国重慶市共産党委員会の薄熙来元書記の裁判は、中国を揺るがすだけでなく、米国でも大々的に報道されるようになった。

 中国の政治の頂点を極めるかのように光り輝いた薄元書記は、いまや捕われの身の犯罪被告人へと転落した。米国はこの裁判をどう見るのか。米国の今後の対中政策の行方を占ううえでも、薄熙来事件への米側の認識を知ることは意味があるだろう。

安っぽいドラマのような裁判の展開

 薄熙来と言えば、まさに白馬にまたがったプリンスだった。華やかな政治リーダーの少ない共産党体制の下でも、薄被告は例外だった。とにかく格好いいヒーローだったのだ。

 彼が大連市長だった2000年、私も目前に見て、そのバイタリティーと大衆を引きつける魅力にびっくりした経験がある。大連での大きな記念式典に出席した薄被告はさっそうとしていて、独特のオーラを放っていた。ちょうどその式典に加わった村山富市元首相とのコントラストが鮮烈だった。なにしろこの頃の村山氏の中国訪問と言えば、ひたすら日本の「過去の罪」を謝るばかりだったからだ。

 だが、そのオーラを発散していた同じ人物がいまや収賄や横領、職権乱用の罪で起訴され、被告となっている。山東省済南市の裁判所で自らの無実を必死で主張する身となってしまったのだ。

 裁判の展開は殺人あり、不倫あり、汚職あり、裏切りありと、まさにドラマである。安っぽい、どろどろのドラマと呼んだ方が正確か。中華人民共和国の独裁政権の中枢にいた人間がこんなにも俗塵にまみれた真実の顔を明かすというのも面白い。おまけに彼は凶悪で危険な部分も多々あるようなのだ。

 アメリカでの薄熙来裁判報道も、スキャンダルのディテールを興味本位で伝えてはいる。だがこの全体の政治展開の意味について、一歩離れ、数歩高い立場から論じている評論もある。薄熙来事件の政治的な意味づけである。

共産党の「神話」を突き崩した薄熙来の動き

 米国大手紙の「ウォールストリート・ジャーナル」は8月22日付の社説でこの事件の意味をそんな視点から論じていた。「中国の王座ゲーム」と題する社説である。

 その要点は以下のようだった。

 「薄氏が、妻によるイギリス人実業家ニール・ヘイウッド氏の殺害発覚の後に失脚したという事実と、それに続く裁判は、少なくとも中国共産党のこれまでの3つの主張を崩すこととなるだろう。たとえ薄氏を裁く裁判のシナリオがすでに書かれており、そのシナリオから逸脱することはあまりないとしてもだ。