1993年6月18日、宮澤内閣の不信任案が可決され、国会が解散された。保守合同から38年間続いてきた「55年体制」の終わった瞬間だった。私はその光景を、NHKの中継車の中で見ていた。歴史の歯車が大きく回る音を聞いたような気がした。

 それから20年、紆余曲折を経た末に、日本の政治は55年体制に戻ろうとしている。いや、あのときはまだ社会党のいる「1.5大政党体制」だったが、今度の選挙では、自民・公明が両院で過半数になり、民主が10議席台のほかはみんな1桁になりそうだ。こうなると審議拒否などの国対政治も利かない自民党独裁の「超55年体制」だ。なぜこんなことになったのだろうか。

小沢一郎氏とともに迷走した政治

 その大きな責任は小沢一郎氏にある。1993年に自民党を割って新生党をつくったときの彼は、著書『日本改造計画』で中曽根内閣以来の「小さな政府」路線を継承し、英米でサッチャーやレーガンの進めていた「保守革命」を日本でも進める方針を掲げた。

 政府や企業に頼らないで「自己責任」で生きるという彼の政治哲学は、自民党政権の崩壊後の日本のビジョンとして鮮烈な印象を与えた。『日本改造計画』には所得税を下げて消費税を10%に引き上げると書いてあったのだ。

 そして彼の狙い通り自民党政権を倒して細川内閣ができたところまでは、彼の政治手腕は高く評価されたが、「国民福祉税」が党内の反対で失敗したあたりから挫折が始まった。

 小沢氏の最大の失敗は、94年に細川内閣が崩壊したあと、社会党を追い出し、自民党の右派と連携して政界再編をしようとして、野党に転落したことだろう。これが結果的には自民党と社会党の野合した奇怪な政権を生み出し、政治の混迷が始まった。

 その後の新進党でも創価学会と分裂し、組織力のない野党を辛うじて支えてきた公明党を自民党の側に追いやったため、新進党が分裂したあとの野党は自民党に対抗する組織を持てなかった。公明党は、結果的には少数与党になった自民党を補完し、「擬似55年体制」を維持する勢力になった。

 それでも自由党の頃までは、かつての「新自由主義」路線を維持する政策的な一貫性があったが、1998年に自民党と連立して失敗してからは少数党に転落し、政策も迷走し始めた。多数派工作のために民主党と連携し、かつて否定した社民路線に転換したのだ。