北米報知 2013年5月30日23号
ヤキマ地域に縁を持つ日系人関係者の再会イベントが25、26日の週末にかけてヤキマ、ワパト両市で行われ、全米各地から、日系家族、関係者約200名が足を運んだ。40年ぶりとなる同地域の再会イベントでは懐かしい記憶を辿る人々の笑顔であふれた。
「昔の知人に会うのは楽しいですが、みんな変わってしまってわからないですね」――。94歳の二世、シズオ・ハラダさんは笑みを浮かべる。
ヤキマ地域で初となった再会イベントは1973年。本紙によると、約350名が参加。多くが一世、二世だった。40年ぶりの行事には高齢を迎えた二世に加え、三世、四世の姿が多い。
2010年にヤキマバレー博物館で始まった日系展示会「Land of Joy and Sorrow: Japanese Pioneers in the Yakima Valley」を受け、同地を離れ育った日系関係者が70年前の縁を頼りに参加した。
ハラダさんはヤキマ南のサニーサイド生まれ、その後近郊のワパトに移り、家族で農業を営んだ。「普通の子どもと変わらない」と笑うが、中学生で自動車を運転、日本語学校は平日通い、学校の前後には農地で働いた。
野球はどの日系社会と変わらず大きなアクティビティーだった。ハラダさんは「ワパト・ニッポン」でキャプテンも務め、7月4日の独立記念日にシアトルで行われた日系野球大会に何度も出場した。
「朝2時から畑仕事をすると、両親から5ドルをもらい、それを手にシアトルへ向かいました」と述懐する。
高校卒業後は家族農業を手伝い、月から土曜日はシアトル、日曜日はタコマまで野菜、果物の販売を担った。地元で1トン2ドルにすぎないスイカがシアトル地域では1トン19ドルの高値で売れた。
1935年度の北米時事年鑑によると、ヤキマ市内にはビジネス43軒、ワパトには農家99軒があった。日系人口は約1200人に達したという。
第二次世界大戦では、1018名が強制退去を受ける。6月4日、5日にポートランド集合所行きの汽車が出発、その後、ワイオミング州ハートマウンテン収容所で生活を送ることになった。