幕末から明治にかけての会津藩をめぐる物語には、どこか同情を誘うところがあり、歴史好きのなかにも会津ファンは多いという。戊辰戦争で官軍(会津では西軍と呼ぶ)につぶされ、極寒の下北半島に斗南藩として減封され辛苦を味わった会津。
「いまも会津の人々には当時のわだかまりがあって、城下町は独特の雰囲気を醸し出しているのだろうか」
などと勝手に思い込みながら5月の連休のあと会津若松を訪れてみると、それはこちらの過剰な反応で、まちはNHKの大河ドラマ「八重の桜」の人気にあやかり、全国各地から観光客が訪れ華やいだ雰囲気だった。
会津のシンボル鶴ヶ城を囲む城址公園には、淡いピンクの桜がまだ残っていた。
ドラマの舞台裏などを紹介するための「大河ドラマ館」をはじめ、周辺には復元された会津武家屋敷、白虎隊士が眠る飯盛山、そして藩士を教育した日新館など史跡、観光スポットは多い。
語り継がれる歴史秘話
しかし、これらとはちがってほとんど取り上げられない小さな歴史モニュメントが市内にある。周囲を山に囲まれた会津盆地の東、猪苗代湖とを隔てる標高870メートルの背あぶり山の頂上付近に、その昔秀吉が休息をとったという関白平という、会津盆地を一望する景勝地がある。
その一画に白い石碑が建っている。大きな石の上に据えられ、上部がアーチを描いていて、和洋折衷ともいえる形をしている。形と同様、碑に彫られた文字も“和洋”混在だ。板状の石碑の表には英語で横書きで、
「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years 」
とあり、裏には中央に縦書きで、
「おけい之墓」
と字が刻まれ、その両脇には、右に「日本皇国明治四年 月 日没す」、左に「行年十九才」とある。 文字通りこれは「おけいの墓」という墓碑だった。
“おけい”という女性が、明治4(1871)年に、19歳で亡くなった。それを偲んでの墓である。名前だけの“おけい”という女性の墓がなぜここにポツンと一つあるのか。この“おけい”とはいったい何者なのか。
明治4年と言えば、会津藩が戊辰戦争で敗れてからまだ3年、人々は散り散りにまちを去り、会津藩士たちは斗南に移封されたが、その斗南藩も廃藩置県で廃止となったのがこの年だ。
八重と同じ時代に生きて
おけいがこの年19歳だったということは、大河ドラマの主人公で1845年生まれの山本八重より7つほど年下になる。八重の生涯に照らしてみれば、明治4年、八重は、生きているとわかった兄の覚馬を頼って京都に向かっている。
二人の女性は同じ時代を生きたといっていいが、辛苦を乗り越え、才気と行動力で未来を切り拓き長寿を全うした八重に対して、名もなきおけいは、同じ会津出身でわずか19歳でこの世を去っている。それも遠くカリフォルニアでだ。
しかし、このおけいという女性については、非常に特殊な人生を送ったことで、いまも会津若松では語り継がれている。彼女は、記録にあるなかでは、最初にアメリカ本土に移民をした日本人女性の一人だと思われる。