ちょうどその当時、前述したように私自身モスクワで北方領土問題に関してロシア政界やロシア外務省内部を取材したのだが、そんな話はおろか、ロシア側から聞こえてくるのは「領土を引き渡すなんて、あり得ない」という発言ばかり。クナーゼ氏本人にも取材をしたことがあったが、領土返還を匂わせるような発言は一切なかった。

 当時はモスクワの権力抗争も熾烈なものがあり、特にナショナリズムは強固なものがあって、たとえエリツィンでも領土で譲歩すれば失脚していた可能性が高かったように思う。対日交渉派だったクナーゼ氏は確かに一時期重用されたが、学者畑の人物でクレムリンでの発言力は皆無に近く、そのような大胆な外交政策を主導できたとは、筆者にはにわかに信じられない。

 クナーゼ氏が領土問題を解決して日露関係を動かしたいと考えていたことは、おそらく事実だろう。しかし、それはあくまでクナーゼ氏独自の構想であって、それ以上のものではない。この打診は正式なロシア政府の提案ではなく、ロシア側の一部に領土返還を考えていた人がいた、ということを意味するにすぎない。

 さらに、“非公式の打診”とも言えない話もある。この5月4日、「生活の党」の小沢一郎代表が、ネットメディア「シアターネットTV」での堀江貴文氏との対談で下記のように話したことが話題になったのだ。

 「僕が(自民党の)幹事長のときに、(旧ソ連の)ゴルバチョフ大統領の側近から『北方領土を返す』という話があった。カネで買うという話だった。何兆円だったかな・・・。1坪あたりで考えれば安いものだということで、大蔵省(現財務省)も『(領土が)返ってくるならいいでしょう』という話になった。それで(1991年3月に)モスクワへ行ったが、『なかなかできなくて』とウニャウニャ言って(話が)違う。僕は怒ったが、ゴルバチョフが『部下の者が言ったかもしれないが、オーケーというわけにはいかない』と謝るものだから、仕方なく帰った」

 その頃もちょうど私自身、モスクワで領土問題を取材していたが、ソ連政府内にそのような話は最初からまったくなかった。そもそもゴルバチョフ自身がモスクワ政界ですでに影響力をほとんど失っており、当時、「最弱の指導者・ゴルバチョフでは北方領土は還らない」という記事を書いた記憶がある。

 どういうことかというと、この当時、国家としての秩序が破綻状態にあったソ連では、怪しい政治ブローカーや自称「大統領の側近」などが跋扈しており、カネ目当てで日本の政府当局者や政治家、日ソ貿易関係者、宗教団体などに盛んに接触していた。小沢氏たちは単に、そうした類の話に引っかかっただけである。

使われる用語は「返還」ではなく「解決」

 その後、1993年10月の東京宣言で、以下のように4島帰属問題が言及された。

 「(日露首脳は)択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」

 4島帰属問題の存在が明記されたのは前進だが、こちらも「返還」という用語は注意深く排除され、「解決」という玉虫色の用語が採用された。この解決という用語は双方が都合よく使い分けることを前提とした曖昧用語で、現在に至るも多用されているが、実質的にさほど意味のある言葉とは言えない。

 その後、一見、交渉が進んだかのような雰囲気に日本側がなったのが、1997年11月のクラスノヤルスク合意である。「2000年までに日露間の平和条約を締結するよう全力を尽くす」と期限が明記されたが、解決の立場が双方違うので、盛り上がったのは日本側のみで、完全に画に描いた餅に終わった。