ニッケイ新聞 2013年4月5日
「5年後にまた会いましょう」―。1973年3月27日サントス着の最後の移民船「にっぽん丸」の40周年同船者会が先月30日、熟連クラブ会館であり、ミナス、リオ、南大河各州から家族を含めた約60人が参加した。
10、30周年に続き3回目。靴が鳴るのメロディーで歌う「にっぽん丸のうた」の合唱、到着時のブラジルに関するクイズ、余興などで盛り上がった。
約30人の同船者らは歓談を通し、ロマンを抱いて太平洋を渡った往時を振り返り懐かしんだ。
・・・横浜港大桟橋は、南米移住者を見送る約3000の人びとで埋め尽くされていた。「夢の大地が呼ぶ」、「頑張れ○○○○君」などと書かれた大きな幕が潮風にはためき、パタパタと音をたてていた・・・『母と子でみる ブラジルへ 日本人移民物語』(草の根出版会)の一節だ。
著者は本紙の藤崎康夫東京支局長。移民の追体験をしたいと船に乗り込み、航行の様子を一項を設けて紹介した同書によれば、南米への移民船で、「にっぽん丸」に乗り込んだ移民は285人。ブラジルが222人、アルゼンチン36人、パラグアイ25人、ボリビア2人だった。
この船は世界周遊を兼ねており、100人強の旅行者も同船した。出航したのは、同年2月14日。この船を最後に飛行機移民時代へ。変動相場制となり1ドル308円から270円代になった日でもある。
日本は高度経済成長の終焉期を迎え、うねるような時代だった。「だから戦前の移民とは全然違う。タダでブラジルに行ける、と遊びに来た人も多い。3分の1はすぐ帰ったのでは」と話すのは生駒憲二郎さん(65、三重)。サラリーマンだったが、外国に行きたいという思いは止まなかった。来伯後2年間会社勤めをしたが、28歳で陶芸の世界に。
同船者全員の記憶にあり、生駒さんが「人生の大失敗」と頭を掻くエピソードがある。米国ロスで一時下船が許され乗船者らは観光を楽しんだ。しかし出航時間を過ぎても「二人がまだ帰って来ない」というアナウンスが流れる。