AsiaX(アジアエックス) 2013年3月4日

「エミリー・ヒル」の正門側。建物の入り口や庭にモダンなオブジェが飾られている

 MRTブギス駅にほど近いミドル・ロードの周辺一帯は、かつて「日本人街」と呼ばれていたことがあります。その歴史は、19世紀後半からシンガポールにやってきた、「からゆきさん」と呼ばれた日本人娼婦たちから始まりました。

 やがて、彼女達を相手に着物や履物、日用品、食料品、薬などを販売する商店が集まって街が形成され、1920年の廃娼後も日本人街として賑わい続けました。街の中心であったミドル・ロードは、在星日本人の間で「中央通り」とも呼ばれていたそうです。

 往時の日本人街の姿を丘の上から眺めて続けてきた、日本人社会にもゆかりのあった建物が実は今も存在しています。それはアッパー・ウィルキー・ロードの突き当りにある大邸宅で、以前はミドル・ロードからも丘の上に建つその姿を眺めることができました。

白亜の邸宅と在星日本人とのつながり

1939年(昭和14年)頃のミドル・ロード。道の先にある小高い丘がエミリー・ヒル。当時日本領事館だった邸宅が見える。写真:『戦前シンガポールの日本人社会』(シンガポール日本人会)

 シンガポール各地の昔の様子から最新情報まで、さまざまなトピックをブログ“The Long and Winding Road”に綴っているジェローム・リム(Jerome Lim)さんによると、ビクトリア様式の白亜の大邸宅がエミリー・ヒルに建てられた時期はおそらく1880年代後半から1890年代初めごろ。

 1897年のストレーツ・タイムズ紙に出されたお悔やみ記事や、1910年に邸宅が売りに出された際の告知記事などから、アドレスは今と同じ11 Upper Wilkie Roadで、「オズボーン・ハウス(Osborne House)」の名で知られていたことがわかります。

 この邸宅の歴史に日本人の名が出てくるのは、1935年のこと。ヒル・ストリートで歯科医院を営んでいた日本人歯科医師のイケダジュウキチ氏が2万2000ストレーツ・ドルで購入したとの記録が残っています。

 シンガポール日本人会発行の『戦前シンガポールの日本人社会』で大正時代の日本人街を描いた地図を見てみると、「池田歯科」はその頃からヒル・ストリートに既に存在していたことがわかります。

 1939年には、この邸宅が日本領事館として使われることになりました。日本人街の住人達は、異国の地の丘の上に高々と掲げられた日の丸の旗を、誇らしい気持ちで見上げていたようです。

 しかし、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発、その約2週間後には日本領事館も閉鎖されてしまいました。