ニッケイ新聞 2013年1月19~24日
(8)馴染めない“祖国”ブラジル 「時経つほど日本恋しい」
「幸良と申します。今日はよろしくお願いします」。淀みのない日本語で挨拶をするのは幸良プリシラ香さん(23、三世)だ。10歳の時、家族とともに愛知県豊橋市に移住した。伯人ばかりの工場環境で働いていた両親は、日本語をほとんど話せない。
家庭の中の会話は「全てポ語が約束だった。日本語はオハヨウとかしか知らないレベルだった」という。それでも「毎日学校に通う中で日本の言葉は覚えました。子どもだったからね」と事もなげに話す。
工場が多い土地柄で、全校で30人以上のデカセギ子弟が在籍する小学校だった。
日本語の不自由な児童のために「国際クラス」があったが、ポ語を解する教員も、外国人指導の資格を持った指導員もいなかった。中学校でも同様で、比較的早く日本語になじんだ幸良さんが通訳をする機会が多々あったという。
中学卒業後は高校には進学せず、就職を選択した。「両親の意向で、中学を卒業して1、2年でブラジルに帰ることになっていた。結局延びに延びて20歳まで日本にいましたけど・・・」。伯人が多い土地柄だったので銀行の通訳としても働いた。ポ語の勉強もかかさず、伯国の高校資格も日本滞在中に取得した。
「接客の態度、お客さんへの敬語、何より手を抜かずに仕事に臨む姿勢を学んだ。本当に正しい日本語を学べたのも中学を卒業した後だった」という5年間で、考え方や価値観は“日本色”に染められた。
「ブラジルに帰ってきて、飲食店やスーパーでのちょっとしたサービスの質の違いが気になるようになった。自分はその中に混じりたくないし、やはり日本と関係あるところで働きたい」と話す。現在は聖市で翻訳業務に就く。並行して通信制の大学の講座も受講しており、二足の草鞋を履く忙しい毎日だ。
「将来は独立した翻訳家として生計を立てていきたい。子どもの教育のこともあって現実的に日本で暮らすのは難しいけど、いつでも日本を感じられる仕事を続けていきたいんです」
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同様に、日本で働きながら高校資格を取得した弟のケイジさん(21)も日本への思いは強い。中学卒業後はマクドナルドなど飲食店で働いた。「衛生意識が高いところからこっちに来たら、やはり驚かされましたね。時間が経てば経つほど日本が恋しくなる」と募る思いを隠さない。
帰伯後、聖市内の海外引越しのコーディネート業者での勤務を経て、昨年6月に日系総合商社の事務職に。「より日本的な環境で働きたい」との気持ちから入社を希望した。合格通知をもらった際には「自分の中の日本的な部分を評価してもらえた」と強く感じ、喜びいっぱいだった。
ところが、待ち受けた現実は別だった。「日本的やり方を求めて入ったのに、ブラジル人的な感覚の人ばかり。個人主義であまり協調性もなく、凄くやりにくくて」と声を落とす。
結局、3カ月も経たないうちに辞表を出した。退職の理由を聞くと「自分の小さなミスを、同僚が上司に誇大に吹聴していたのを知ったんです。人を蹴落とす形で前に出ようとする人とは働けないと思って」とため息をつく。日本への郷愁はさらに強まった。
「一番興味のあるグラフィックやアニメーションの勉強をして、将来は日本で働くことも十分視野に入っている。戻ってきたことに後悔はないけど、自分の性格は日本にあっていたんだなって改めて思います」
日本を思うその気持ちの行き着く先はどこに――。(2012年8月1日取材)