この連載「日本食の先端科学」では、これまで伝統的な日本の食を毎回テーマに取り上げ、その歴史と先端科学を追ってきた。これまでに扱ったのは、鮪、鰹、醤油、抹茶、日本酒、米、蕎麦、うどんといった食材だ。
伝統的な日本食でもう1つ、避けることのできないものがある。鯨だ。
鯨食の習慣がある国・地域は、世界でも珍しい。日本では、一部の漁師や大名が食べていた鯨肉を、その後は広く庶民も食べることになった。敗戦直後の食糧不足にあった日本人は鯨肉によって救われた。学校の給食で「鯨の立田揚げ」を食べた、と思い出す人もいるだろう。
そのような、日本人が鯨を当然のように食べる習慣が、いまや失われつつある。1980年代後半から国際的に商用捕鯨が禁止されているのは周知の通りだ。調査捕鯨で捕れる鯨や、国際的な条約の範囲外にある小型の鯨などを細々と食べているのが、日本の鯨食の現状である。
なぜ、日本人は食べてきた鯨を食べられなくなってしまったのか。これからも鯨をほとんど食べられない状況は続くのだろうか。この問題を考えるには、日本人と鯨の関わり合いの歴史と、いまの鯨が置かれている環境を知るための先端研究の両面から、見ていく必要がある。
そこで「鯨」をテーマに取り上げる今回は、まず前篇で、日本人が鯨という食物とどう向き合ってきたのか、その歴史を追っていきたい。鯨食に欠かせない捕鯨の変遷も合わせて追っていく。
後篇では、鯨の資源をほぼ利用することのできない現状がある中で、科学的研究で鯨資源のことがどこまで解明されているのかを、鯨類学の専門家である東京海洋大学大学院の加藤秀弘教授に尋ねてみることにする。
「突捕り式」から「網捕り式」へ
日本の海岸近くを鯨が往来するのは珍しいことではない。太古から日本の海岸には鯨が近づいたり打ち寄せられたりしてきた。それらを人々が仕留めた形跡が各地で見つかっている。
福井県の鳥浜貝塚からは縄文時代の鯨や海豚の骨や丸木舟が出土している。長崎県壱岐島の鬼屋窪古墳からは鯨を縄でつないだ船を描いた絵が出土している。湾に紛れ込んだ鯨を人々が総出で追い込んで、槍や銛(もり)で突くようなことをしていたのだろう。
日本の捕鯨史で最初に大きな革新が起きたのは、16世紀と見てよい。後の1720(享保5)年に、谷村友三がまとめた日本初の捕鯨専門書『西海鯨鯢記(さいかいげいげいき)』に、「元亀年中」つまり1570年から73年にかけての出来事として、こう記されている。
<三河国内海ノ者、船七、八艘ニテ沼崎辺ニテ突取ル。>