北米報知 2012年11月1日45号
シアトルダウンタウンを望むクイーンアンの北側の住宅街にあるマウント・プレゼント墓地。入り口から道なりに向かうと北西側には中国系の墓地があり、さらに中央部に進むと日系墓地が見えてくる。移民初期のものが主で、そのうちの1つに23名の日本人鉄道工夫の名前を彫った墓石がある。
1938年、日本人会商業会議所が建てたものだが、工夫たちは1909年11月28日のグレート・ノーザン(大北)鉄道カナダ路線の雪崩事故の犠牲者という。米国社会の礎となった大陸横断鉄道に従事した日本人工夫を悼み、地元日系仏教関係者らは毎年の彼岸供養を欠かさないという。
米国鉄道で出稼ぎ、日本人1万人
中国人排斥法が1882年に施行され、米大陸横断鉄道の工事の代替労働力となった日本人移民。パシフィックユニオン鉄道に1892年に送り込まれたのが始まりとされる。
ワシントンを越え、カリフォルニア、オレゴン、アイダホ、モンタナ、ユタ、ワイオミング、コロラドなど各地へ送られた。
東洋貿易、古屋商店など地元日系会社があっ旋し、伊藤一男著『北米百年桜』によると、その数は1905年段階で1万1000人になったとされる。
環境は劣悪といっても過言ではなかった。出稼ぎが大きな目的のため、共同自炊生活のなかでは出来る限りの節約が図られた。労働時間は1日10時間、初期の日収は1ドルをわずかに超える程度と記録が残る。
賭博も蔓延し、『北米百年桜』でも、当時の様子が約50ページにわたり記されている。山間部が労働場所だったこともあり、冬には大雪で線路維持も困難を極めた。脱線も頻発、また死傷者をともなう事故も多発した。
マウント・プレゼント墓地には米国歴史上最大の雪崩事故とされる1910年のウェリントン雪崩事故の犠牲者を弔う墓石がある。死者96名を出したとされ、スノークォルミー・カスケード地域担当の国立森林局員のジャン・ホレンベックさんによると、日系鉄道工夫12名も含まれる。
この事故を契機に入り組んだ峠線だった路線は、大規模なトンネル就工やコンクリート製の雪崩よけが建設された。カスケード山脈のアイアンゴート・トレイルでは現在、建設物が残る地域を散策できるようになっている。
当時鉄道路線の町として存在したウェリントンは日本人工夫も多く、当時の地図には「Jap House」と記された建物が1910年代から20年代にかけて存在、日系鉄道工夫の共同生活所があったことが窺える。