7月上旬、福島第一原子力発電所まで行ってきた。

 同原発のある双葉郡双葉町、原発から3キロのところに住んでいた人が「一時帰宅に一緒に来ませんか」と誘ってくれたのだ。20キロラインの内側なので、もちろん住民や職場のある人以外は立ち入り禁止である。記者である私は本来は入れない。下手をすると警察に逮捕される。「荷物を運び出す手伝いに来た親戚」ということにしてもらった。立ち入り禁止ゾーン住民の一時帰宅を見るのは初めてだ。

 行ってみたら、家の前から同原発の排気塔が見えた。車で5分も走ったら、原発の境界フェンスまで着いてしまった。とうとう福島第一原子力発電所の姿を見た。吹き飛んで黒こげになった原子炉建屋の鉄骨が見えた。あまりに住宅地に近いので絶句した。

 原発の「立地自治体」である双葉町は、2011年3月12日に全町民が脱出したまま、がれきの片付けすらできないまま放置されていた。津波や地震のがれきが3月11日当時のまま残されていた。1年半近くが経って、その木片や土塊が風化して崩れ始めていた。その上を雑草が覆う。草むしたゴーストタウンだった。

 今回から数回にわけてこの「福島第一原発が見える町・双葉」からの報告を書く。

 前回まで3回にわたって書いた『原子力防災』の著者・松野元氏との対話に直接関係してくるからだ。この双葉町こそ、政府(官僚、学者、政治家)の愚策の犠牲になった当事者だからだ。

 おさらいの意味で言えば、「地震と津波は天災だが、それによって全部交流電源を喪失したあと、住民の避難に失敗し、住民が被曝したのは政府のミスであり、人災だ」の「住民避難に失敗した政府の愚策」の舞台がここなのだ。

防護服は必要ないというが・・・

 ワゴン車は福島県郡山市を出発して、常磐自動車道に入った。福島第一原発の南側から北上している。

 1時間少々走ったところで、日が陰り、視界がくもった。あっという間に霧が前方を満たし、空気が冷たくなった。

 「ここらへんはよく霧が出ます。海と山と両方から強い風が吹きます。だから昔は冷害がよく起きたそうです」

 運転席の小島詠一さん(36)が言った。

 子供のころから、双葉町に住んでいる。育った家は原発から数キロだという。団体職員である。その勤め先も双葉町内だった。原発事故で、家と仕事を同時に失った。今も郡山市で避難生活をずっと続けている。

 「防護服を用意した方がいいのでしょうか」

 私を一時帰宅に誘ってくれたとき、メールで相談した。2011年9月に立入禁止ゾーンで取材したときには、私も同行者も全身を覆う防護服を着てマスクをつけた。タイベックの防護服はビニール袋のつなぎのようで、暑さでフラフラになった。今回もそうなるかと思ったのだ。が、小島さんから返事が来た。