日本は核保有国に取り巻かれている。その中には「(外交や国益増大に)核を活用せよ」と国民に檄を飛ばす指導者もいる。こうした状況を反映して、日本でも「核装備が必要だ」という声が少なからず聞こえるようになってきた。
しかし、実行の段階になると米国をはじめ、国内には反核論者や反日国家に使嗾された分子がおり、国論は二分され混乱に陥らないとも限らない。
国内の混乱を回避して、現実に存在する核の脅威を抑止する一方で、「ダモクレスの剣」として嫌悪される核兵器を廃絶する理想を断ち切らないことが日本の方向でなければならない。
そのためのグランド・ストラテジーを提示して問題に対処しない限り、国内外を納得させることは困難である。
欠落している視点
To be or not to be, that is question.
これはシェークスピアの『ハムレット』に出てくる一文であるが、核をめぐる日本の心境そのものである。色んな解釈ができるが、さしあたり、"核兵器を持つべきか持たざるべきか、それが問題だ″と苦悩する日本の立場にも取れる。
ここではさらに歩を進めて、核保有は今や必然であるが、米国が差しかける核の傘を離れて日本が"生きられるか否か、問題はそこだ″と解釈した方がもっと現実的かもしれない。
核問題を議論するに当たって決定的に欠けている視点が2つある。1つは米国の核抑止力は(特に有事に)どのように有効かという問いであり、もう1つは唯一の被爆国というセンチメントへの対処である。
尖閣諸島沖での中国漁船の追突事案で日中の対立が起き、また北朝鮮が核・ミサイルの実験などを行うたびに、日本が核装備に向かうのではないかという疑心暗鬼の声がどこからともなく上がってくる。
米国は慌てて国務長官などを派遣して、安保条約に基づき「核の傘の信頼性」を言明してブレーキをかけてくる。ただ、どのように核の傘を差しかけてくれるのか確認しないできたのがこれまでの日本であった。
非核3原則を掲げ、集団的自衛権は不行使では同盟関係を阻害する幼児的自己撞着も甚だしく、米国の核の傘の信頼性を検証しようにもできなかったのが実情であった。
自民党政権時代は「核論議の必要性」が言われるたびに野党から一斉に反発の声が上がり、二進も三進もいかなかった。しかし、民主党が政権を担当して国際社会がバランス オブ パワーで動いている現実に気付いた結果、(大きなとは言い難いが)幾らかの変化が見られるようになった。