東アジアで新たな外交のドラマが始まった。バリ島で開催された第5回東アジアサミットで、ライジングパワーである中国に対し、超大国の看板が色あせてきた米国が「南シナ海でお前の好きにはさせない」とばかりに立ち上がったからだ。
中国にとって誤算があったとすれば、米国に対抗できるだけのパワーを獲得する前に、粗暴な外交で周辺諸国を警戒させてしまい、衰えつつあるとはいえいまだ「世界の警察官」である米国の介入を招いてしまったことだ。
米国を東アジアサミットに参加させたかった日本
このドラマを演出したのは、日本だったとも言える。
東アジアでの経済統合の動きは、1990年代初めのマレーシアのマハティール首相による「東アジア経済グループ(EAEG)」構想に端を発するが、米国はこの構想を「太平洋を二分する試みだ」と強く反対してきた。97年のアジア通貨危機を収拾するために「ASEANプラス3」(プラス3は日中韓)が立ち上げられ、事実上のEAEGが出来上がっても、米国はこれに無関心を装ってきた。
しかし、日本は米国に気兼ねし、ASEANプラス3にはあまり熱心ではなかった。結果として、これに意欲的に参画した中国がASEANプラス3では幅を利かすようになってしまい、日本は東アジア経済でのリーダーシップを回復すべく、ASEANプラス3プラス3(インド、オーストラリア、ニュージーランド)となる「東アジアサミット(EAS)」を組織してきた。
南アジアのインド、オセアニアのオーストラリア、ニュージーランドを加えたのは、これらが民主主義国家であり、民主主義国家がマジョリティーを占めることで、この組織の外にいた米国に「安心感」を与えるとともに、米国の参加に期待したのだ。
この経緯から見ても、オバマ政権が「東アジアサミット」への参加を決めた背景に、日本の働きかけがあったことは確かだろう。
米国も、東アジアで進展する経済統合の潮流に参加しないことの代価の大きさに気づくところとなった。このまま中国がその影響力を東アジアに拡大し、米国の影響力を削ぐのを黙って見ているわけにはいかなくなったのである。
「四面楚歌」の状況に追いやられた中国
その米国が初参加した東アジアサミットの主役は、やはりオバマ大統領だった。APECホノルル総会でTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉参加を日本から取り付け、さらにカナダ、メキシコの交渉参加意思も得た余勢もあり、これまで「米国抜き」だった東アジアサミットの様相を一変させた。東アジア経済統合の新たなリーダーとして米国が名乗りを上げたからだ。