東京・大手町の日本経団連

 花村仁八郎。と言っても、40代よりも若いビジネスマンでその名を知る人間は少ないだろう。日本経団連の前身である経団連の元副会長兼事務総長。戦後間もなく経団連が創立されたときから40年以上にわたって財界の総本山に籍を置いた人物である。

 人呼んで「財界の政治部長」。1948年の昭電疑獄や1954年の造船疑獄など戦後間もない時期に財界が「政治とカネ」の問題に巻き込まれたことを教訓に、花村が財界の政治献金のルールを作った。経団連が業績に応じ各企業・団体に配分し、斡旋するという方式、いわゆる「花村メモ」である。

 かつて政官財による「鉄の三角形」が形作られていた時代に、彼はそのど真ん中に座っていた、と言っても過言ではない。

政治献金は自由経済体制を守る保険料

 その花村が財界の政治献金について、自伝の中でこう書いている。「自由経済体制を守るための保険料」。つまりは自民党政治を続けるためのコストと言うわけである。

経済財政諮問会議の民間議員として当時の奥田碩経団連会長を起用するなど、人材供給源としての経団連と良好な関係を保った

 1997年に88歳で他界した花村が、経団連で活躍したのは、まさに「冷戦の時代」のさなかだった。政界では「改憲・保守・安保護持」を掲げる自由民主党と、「護憲・革新・反安保」を掲げる日本社会党が対立する55年体制が継続していた。

 財界にとっては、政権党が社会党になることは絶対にあってはならないことだった。保守政権の維持のためだったら、当然カネも出す。経団連が斡旋する企業・団体献金は、企業が我が身を守るための「保険料」そのものだった。

 佐川急便事件などの不祥事続発を受けて、経団連は1993年にいったんは献金斡旋を廃止。奥田碩会長時代の2004年に、その名目を「保険料」から「社会貢献」に変えることで献金を復活させた。奥田氏は「献金を通じて、政治を活性化させる」としたものの、その実態は、結局のところ「求める政策を実現させるためのカネ」だ。しかし、その献金の斡旋を日本経団連は取りやめるという。なぜか。