私が松井今朝子作品と初めて出合ったのは直木賞受賞作の『吉原手引草』(幻冬舎)だった。身請けが決まり、間もなく幸せな生活が始まろうとしている遊女・葛城が突然失踪する。ある男が、葛城に関わりのある人を訪ねて話を聞いて回り、失踪事件の真相を浮かび上がらせていくというストーリー。
浮かび上がってくるのは事件の真相だけではない。現代人である私たちが、行ったことも、見たこともない、江戸の吉原の世界がすぐそこに広がっていくような密度の濃い文章に圧倒された。
その後、むさぼるように読んだ松井作品、『そろそろ旅に』『辰巳屋疑獄』『非道、行ずべからず』『幕末あどれさん』・・・どれもこれもをおススメしたくなるような、濃密・本格・長編時代小説なのだが、敢えて、異色作を紹介したい。
『一の富』は、江戸を舞台にしたライトミステリー短編集。主人公は、歌舞伎作家見習い修業中の並木拍子郎と、その師匠で売れっ子作家の並木五瓶。
五瓶は、もともと大阪の芝居小屋付の狂言作家だったが、腕を見込まれて江戸に引き抜かれる。風土も文化も違うところにやってきて、最初は、なかなか人気作品が書けずに苦労するのだが、そこで、思いついたのが、町で見かけた面白いこと、気になることを帳面に書き留めて、それを芝居作りのヒントにした。
弟子の拍子郎にも、同じように「種取帳」を付けて、面白い話を集めて、師匠に報告するようにと勧める。事件は、いずれも、拍子郎が見聞きして、帳面に書きつけてきたことを、師匠が劇作家としての観察眼をフルに使って、見事に推理してみせるというもの。
名前の響きの通り飄々とした拍子郎に、穏やかそうに見えて切れ者の五瓶。美人ではないけれど、しっかりもので、五瓶を尻に敷く妻・小でん、五瓶夫婦を慕う近所の魚屋の娘・おあさと、愛すべきキャラクターがたくさん登場して、人情物としても十分に楽しい。
作者・松井今朝子は、子供の頃に歌舞伎の魅力に取りつかれ、早稲田大学大学院演劇学修士課程修了後、松竹に入社、歌舞伎の企画・制作に携わる。松竹を退職後はフリーとして歌舞伎の脚色や演出、評論を手掛け、その後、本格的に作家活動に入った経歴の持ち主。
つまり、「一の富」は歌舞伎の専門家が、歌舞伎作家を主人公に据えて書いた作品で、なんとはない描写の中にリアリティがある。事件そのものが複雑怪奇というわけではないが、庶民に愛された江戸の芝居小屋を取り巻く空気が伝わってくる。
ミステリーなので、中身を紹介するわけにはいかないが、第1話の「阿吽(あ・うん)」は、拍子郎が聞きこんできた事件を、五瓶が芝居に仕立てて、実際に興行してしまうという話。芝居が話題を呼んだことで、同心の調べが入り、事件は解決に向かう。
実は、今も人気の高い近松門左衛門の『曽根崎心中』も、実際にあった心中事件を近松が取材して、事件からわずか数週間で芝居に仕立てた作品。テレビも新聞もなかった時代は、芝居が庶民にとって重要なメディアでもあった。劇作家が種取帳をもとに、芝居を作るという筋立ても、なるほど、いかにもありそうな話だ。