鶴屋南北。日本史の授業で名前ぐらい聞いた記憶があるのではないだろうか。「東海道四谷怪談」の作者と聞けば、もう少しイメージが湧くかもしれない。(文中敬称略)
四代目・鶴屋南北は江戸後期の町人文化の担い手の1人。奇想天外な設定、毒のある笑いを含んだ生世話物(きぜわもの)や怪談話を得意とし、大道具と組んで独創的な舞台装置を考案したことでも功績を残した歌舞伎狂言作者。現代風に言えば、ゴールデンタイムのお笑い番組を担当する人気放送作家といったところだろうか。
四代目・南北は、もともとは江戸の紺屋の息子として生まれ、芝居好きが高じて狂言作者となった。歌舞伎道化役の名門の家の娘を嫁にもらい、後に岳父・南北の名を襲名した──と伝えられている。当時としては長命の75歳まで生き、晩年まで作品を書き続ける力の源となったのが、タイトルにある「鶴屋南北の恋」であるという設定だ。
1文字たりとも無駄のない清らかな文章。にもかかわらず、これから始まる無限の物語を予感させる豊かさも併せもつ書き出し。圧倒的な日本語の美しさに、私は、最初の10行でこの物語に惚れこんだ。行を追うごとに、江戸の町の情景、人々の暮らしぶりが目に浮かぶ。南北が晩年に愛した辰巳芸者・鶴次との温かい日々を、ひたすら美しい文章で紡ぎだした作品としても十分に楽しめる。
しかし、奇想天外な設定、独創的な舞台装置を考案した四代目南北に倣い、「鶴屋南北の恋」も、単なる恋物語では終わらない。
四代目・鶴屋南北については、「ほとんど文字が書けなかった」「立作者になっても、弟子に仕事を任せきりにすることがなかった」「気に入らない弟子には、新作の筋を教えなかった」などの逸話が残っている。こうした逸話をもとに、恋物語の体裁をとりながら、「四代目鶴屋南北という大物戯作者はフィクションであり、実在したのはオフィス・鶴屋南北である」という大胆な鶴屋南北論を展開しているようにも読むことができるのだ。
江戸文化に関心があれば、松井今朝子の『東洲しゃらくさし』も併せて薦めたい。こちらは、物語を通じて「写楽とは何者か」に迫っている。