住み慣れた町から強制的に移転する。東日本大震災でいくつかの自治体が直面している大きな課題だ。住み慣れた土地を離れて一から離れて暮らし直すことは決して簡単ではない。
特に、高齢化が進み、経済基盤の弱い地方では移転自体がネガティブに捉えられがちだ。
島根県飯南町の志津見(しつみ)地区も、20年前にダム建設に伴い地区が沈むために集団移転を余儀なくされ、6割が新天地を求め地区を去った。残ったのはわずか25世帯。
移転の代償とも言える地域振興策が動き出す中、住民は行政の壮大な活性化プランを拒否、全戸出資で会社を設立し、自主自立の精神を大切に、いまも経営を続ける。「何もない地区」の会社は、ほとんど赤字も出さず、若手への代替わりへも実現した。
全員で新しい地域づくりを 危機感が後押し
この会社は「志都(しづ)の里」。島根県飯南町志津見地区で、農地付きの貸し住宅「クラインガルテン」(20区画)のほか、食事処の「うぐいす茶屋」などを運営している。設立から8年間、少しずつ成長を続け、2009年度の純利益は23万円、2010年度は100万円近くになった。
志津見地区で、下流部の洪水防止を目的に、国の志津見ダム建設事業が浮上したのは、1969年。多くのダム建設地と同じように「先祖代々の土地を水に沈めたくない」と反対の声が上がったが、最終的には国の方針を受け入れ、建設が決まった。
移転は、それぞれが「生きなおす」きっかけだった。この地域に残るか、出るか。選択を迫られた結果、残ったのは、わずか25世帯だった。結びつきの強さが自慢だったそれまでの64世帯は4割に減った。
住民の1人、山下潔さん(67)は「1集落は100世帯と考えていたから、寂しかったし、心細かった」と振り返る。地域存続も危ぶまれる状況。そして、慣れ親しんだ人や土地を失う喪失感。しかし、住民たちはこれで終わらなかった。
裏返せば、残ったのは、地域への思いがとりわけ強い住民ばかり。地域を守り、活性化させたいという願いは一致していた。移転を終えた後、1999年に志津見振興組合を設立。2003年に「志都の里」へと衣替えした。
会社化に伴い「地域を守る」というミッションを明確化。全戸に計300万円の出資を呼びかけたときも、異論は全く出ず、あっという間に集まった。