エルドアン首相は自らの主張するコーカサス安全保障・和平プラットフォーム構想(ロシアとコーカサス3国およびトルコで地域内平和を話し合う)を打ち上げ、翌14日にトビリシに飛び、サーカシビリ(サアカシュヴィリ)大統領と会談して中立姿勢もぬかりなくアピールした。
もっとも、これらはあくまで自らの存在感を売り込むためのしたたかな戦略の一環で、トルコが地域の平和構築にさほど積極的とは思われない。しかし、それでは、前述のグルジア人友人の険しい表情は何を想起したものだったのだろうか?
レーニンとアタチュルクの亡霊
近年のトルコとロシアの急接近と、昨年8月のロシア軍の南下およびトルコ軍の動きは、一部のグルジア人にある歴史的事件を彷彿させたようである。
現在のトルコとソ連から独立したコーカサス3国(アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)の国境線は、1921年10月23日に締結されたカルス条約によって確定したものである。これは、レーニン率いるボルシェヴィキ主導のロシア政府参加の下、ムスタファ・ケマル(後にトルコ共和国建国の父として贈られたアタチュルクの名で知られる)の主導する大国民議会と南コーカサス3国の合意として交わされたものだった。
これに先立つ同年3月16日にはモスクワで原型となる条約が結ばれていたが、赤軍によって2月末にトビリシが征服され、コーカサス3国の社会主義化が完了したわずか2週間後のことであった。
この条約は、第1次大戦後の混乱を収め、内戦や干渉戦争など、ともに厳しい国際環境に晒されていたロシアとトルコにとってそれぞれ後顧の憂いを減じた点で大きな意味を持った。それは、この協約が1922年のソビエト連邦成立や1923年のトルコ共和国建国よりも前に結ばれたことからも明瞭である。
もちろんこれはコーカサス現地の人々から見れば、大国による勢力圏の確定と、これまでの対立を解消するためのいわば「取引材料」にされたとも言えなくない。
