「本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。

 企業を取り巻く利害関係者との関係を表す「(その3)共存共栄」は、本流トヨタ方式の根幹とも言える考え方であり、行動規範でもあります。

 前回は、第2優先に取り組むべき関連企業との関係について、筆者の1970年代の体験を基に通称「トヨタ自主研」の中身をお話ししました。

 今回は2回に分けて、90年代前半に、筆者が上級管理者として田原工場の社内自主研をどう運営したのか、また、生産調査部部長として協力メーカーとどのようにトヨタ自主研を展開したかについてお話しします。

海外進出を機にTPS(トヨタ生産方式)の推進を強化

 まず、70年代から80年代にかけての大きな流れをおさらいしておきましょう。

 産業界全体が石油ショックで苦しんでいる時、自動車業界では、排ガスによる大気汚染が問題となり、70年に米国ではマスキー法が制定されました。国内でも同様な動きがあり、排ガス中の有害物質を10分の1に減らすことが義務づけられました。紆余曲折はあったものの、日本の自動車メーカーは死にものぐるいで研究し、見事クリアしたのでした。

 その結果、米国では、高騰したガソリンをがぶ飲みする米国車に取って代わって、高性能で燃費の良い日本車の販売量が急増しました。

 しかし、その裏側では、米国の自動車会社で失業者が増え、社会問題になっていきました。80年には工場を米国に誘致する要請が来たり、81年には対米輸出の自主規制が行われ始めたのでした。いわゆる日米自動車戦争が始まりました。

 トヨタ自動車は、トヨタ生産方式が欧米で通用するものかどうかという懸念もあって、日産自動車やホンダに後れを取っていましたが、85年から本格的な海外進出が始まりました。

 海外進出に当たっては、現地で生産する車種を製造している日本の工場が「親工場」となって指導する方式が採られました。

 親工場の製造現場の改善活動の中核を担っていた「技術員」が、新規立ち上げの海外工場にTPS(=トヨタ生産方式)を教えるために派遣されるようになり、従来のように「技術員」の育成を各製造部にお任せするのでは心許ない状況が生まれてきたのです(なお、本文では巷間で様々な人によって伝えられている「トヨタ生産方式」と区別してトヨタで行われているものを「TPS」と称していくことにします)。

 海外進出を機に、オールトヨタとしてTPSの推進方法について見直しを図ることになりました。